わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第1章 産 声(昭和6〜25年)            赤 沢 正 美

 1 産 声

 小さな歩み

 会が発足して間もない6月3日、これまで閉ざされていた患者達が国立の長島愛生園へ視察訪問を行ない、その報告会が会堂において聞かれた。愛生園では親善野球の実況が有線放送で各寮に流されていたことを聞き、「さすがは国立じゃ、部屋にいながら野球が聞ける」と、盲人たちはうらやましく思ったものである。
 また、この年には病気の父親や母親と共に暮らしている子供達のために、保育所が職員区域に開設された。これによって親達は安心したものの自由に会うことは出来ず、決められた面会日にも境界柵をはさみ、保育所の先生が付添うといった不自然なものであった。
 しかし秋には職員との合同運動会がグラウンドで催され会員もこれに参加して<めんたたき>や、<案内競技>など行なった。案内競技というのは、青年団員が振るご詠歌の鈴の音を追って走る競技であり、5組位がいっしょに走るので音が交錯し、他の組の案内人を追っかけるなど、見物人をわかせたものである。
 園の機関誌「藻汐草」が発刊されるようになり、会員の中には短歌や俳句を作る者が次第に増えてきた。それに盲人将棋をたのしむ者も多くなり、仲間の輪のひろがりをみせはじめている。9月末にははじめての総会を開き、席上文芸発表なども行なわれた。そして後期の会長に山形豊が再選されている。
 8年1月10日には、らい患者を慰めての兼題による、
  皇太后陛下御歌
 つれづれの友となりても慰めよ行くことかたきわれにかはりて
 並びに各宮妃殿下の御歌がご下賜され、その伝達式が会堂において行なわれた。この御歌に感激した多くの職員や患者が奉答歌を詠んでいるが、その中に会員の、
 暖かき朝日の影る大島のつつじも春によみがへりけり
                   藤 田 粂 市
 御恵みの光をうけて冬枯れのくさ木ながらも心春めく
                   神 田 慶 三
 の歌もみられる。
 3月12日玉藻婦人会が発足し、青年団と共にお世話下さることになり、寮を廻って杖や靴に、鈴、名札をつけてくれた。それは会堂で行なわれる式や慰問演芸の時など、杖や履物の整理を後援団体の人たちにしてもらうのに必要だった。またコンクリート道を探りやすいように、キセルの吸い口を杖の先につけてくれたりもした。
 かねてより青年団は患者区域の北の山を一周する道を拓いていたが、3月16日遂に完成、「相愛の道」と名付けられた。道幅1・5メートル、全長1500メートルのこの道は、崖に面した危険なところもあるが山際を探れば安全なので、盲人も散歩するようになった。
 芽生えゆくものの香ひよ山路行く心ははづむ盲の吾れは
                   武 田 正 夫
 紅葉する相愛の道辿りけり      東   桂 水
 4月20日、亡くなられた小林所長に代り野島泰治先生が大島療養所長になられた。初めて職員と患者の野球試合が行なわれ、愛生園から視察団を迎えたり、大島からも自治会代表、野球団が外島保養院を訪れるなど、2、3年前までは想像も出来なかった動きがみられるようになった。野球試合のときはネット裏にゴザが敷かれ、青年団員がその模様を解説してくれるので、野球を知らない盲人も多くつめかけた。島の中央あたりがグラウンドになっていてレフトの周辺には大きな松が幾本もあって、凡フライが松の木ヒットになったり、またファウスト近くの蓮池にボールがとびこんだりした。
 会創立一周年記念日の5月27日には会堂において茶話会を行ない、募集していた短歌、俳句、独々逸の人選発表のあと懇談にうつり、篤志家のお世話によってつつじの咲く丘で聞かれた慰安会のこと、盲人だけの将棋大会をやっては、という話も出た。盲人将棋は、木蔭でも治療の待ち時間でもさせるので仲間が多くなり、自治会が行なう盆の将棋大会に、盲人同士でさせるコーナーを設けて欲しい、と申し入れ、はじめて盲人将棋大会が実現したのである。
 秋になって開いた幹事会の席で、みんなに楽しんでもらえるものとして台詞劇をやってみては………ということになった。青年団幹部のなかに演劇の好きな者がいて、それはいい、ということでとんとん拍子に決った。脚本選びや台詞の書き抜き、演出の指導はその人があたってくれることになった。題は「樵人」ということになり、配役も決って練習に入ったが、台詞だけで果して観客に分ってもらえるかどうか、不安をかかえながらも台本全部を暗記し、自分の役の台詞をおぼえるのが一苦労だった。砂浜に出て稽古する者、トイレでつぶやいていて寮員にひやかされたりしながら、懸命の練習のうちに年も暮れた。
 そして9年の新春かるた会や福引きなど、病む者にもそれなりの正月気分を昧わった。1月14日、後援団体によって準備された舞台で第1回公演となった。その日は西風が老松を鳴らしていたが、盲人の初めての台詞劇ということで大勢の観衆がつめかけてくれ、声援と拍手のうちに無事公演は終った。
 4月、新年度の役員も決り、自治会、後援団体との初顔合せのとき、さきに行なった台詞劇のことが話題になり、盲人は台詞を暗記すると台本に頼らないので間のとり方もうまく、台詞劇は盲人にとってうってつけのものだ、という後援団体の積極的なすすめもあって、今年は開所25周年でもあり、会の創立記念行事に併せて5月29日、第2回台詞劇を行なうことになった。この度は少年、少女寮の子供達や葵楽団、共楽団などの賛助出演を得て行なうことになり、舞台は会堂中央の窓際寄りに作られ、観客席は三方から舞台をとり囲むようにできていた。そして出演者が台詞に力が入り、手や体を動かしたりする動作が見えないように黒い幕を張り、マイクやスピーカーもとりつけられた。当日開幕は午後零時半からであったが、早々に観衆が押しかけ、職員席も所長はじめ事務職員、看護婦さんたちで埋まっていた。主催者として山形会長の挨拶、つづいて、
  「杖の友会に贈る歌」(作詞作曲・土谷勉)
  一、みんな寄りましょ集いましょ
    杖を友する人々よ
    共に励まし慰めつ
    今日の好き日を語りましょ
 と、少年、少女の明るい合唱で開幕になった。
 プログラムを紹介してみると、
  台詞劇・「地震」 杖の友会
  唱 歌・「夏のバラ」、「菩提樹」 少年少女一同
  台詞劇・「茅の屋根」 婦人会
      「対話」 共楽団後援
  吹奏楽・「元禄花見踊」、「ドナウ川の漣」、その他 葵音楽団
  童話劇・「王様とピエロ」
  童話劇・「蛙の夜まわり」 少年少女一同
  台詞劇・「甕割柴田」 杖の友会
 そして最後に、山脇千代治作詩、小林又市作曲の「杖の友行進曲」を出演者全員でうたって閉幕となった。練習期間は短かかったが、少年少女や賛助出演者を交えての熱演は延々4時間にわたり、時の長さを感じさせなかった。
 9月20日に襲来した室戸台風では、海岸に近い病棟の入室者を道を距てた病棟や治療棟に避難させたり、松が折れ、屋根瓦が飛ぶといった被害がでた。大阪の外島保養院は高潮で潰滅し、患者173名、職員3名その家族11名の犠牲者がでた。難をまぬがれた417名は全国の療養所に分散して委託されることになり、大島からは24日朝船で迎えに行き、50名を受け入れ、つづいて20名をあずかったが、その中には盲人も多く会員として迎え、安浪友次郎氏を役員として推薦したのである。
 明けて10年正月を迎えた。不自由者の寮員たちは雑煮を祝った後、籍元である軽症寮へ年賀の挨拶に行くのが習わしになっていた。籍元というのは、大きな手術をした時や重症になって付添看護が必要な場合、看護にあたったり、不幸にして死亡すると通夜から葬儀など一切の世話をする制度である。盲人たちも挨拶に行った籍元寮でお茶をよばれたり、日頃世話になっている人たちへの年始まわりで午前中は過ぎてしまう。外島の盲友の中には俳句などに趣味をもっている者が多く、いっしょに「藻汐草」への発表を行ない、互いに励まし合っていた。またよく不自由者寮に同好の者が集まって、1人1銭ずつ出し合い、冠句、ものはづけ、俳句などの運座会が盛んに行なわれていた。
 自治会では、皇太子誕生を記念して9年2月、官舎地帯の西南の水が浦に軽症者の奉仕によって、千歳果樹園がひらかれた。やがてこの果樹園に桃や梨の花が咲きはじめた頃、花見をすることになり、日曜と木曜は軽症者寮、火曜と土曜は不自由者寮と決められ、盲人には青年団、婦人会の介助がつき、多くの者が出かけた。果樹園までは二丁艪の船で、西海岸から15分あまりかかって砂浜に着き、松林の中のゆるやかな坂道を登って行くと、かたわらの細い溝には水が流れており、島には珍しい芹が生えていた。谷の中央あたりに清水の湧くところがあって、そこに小さな溜池が作られていた。盲人たちも花の香りを胸いっぱい吸いこみ、柵の外へ大手を振って出てこられた喜びにひたった。そして扇状にひらけた果樹園の模様をきかせてもらい、帰りには清水をくんで持ち帰る者もあって、寮に落ち着くとみんなは遠い旅でもして来たように感じた。夏には果樹園でとれた西瓜が全員に配られた。
 11年はひどい寒波で明け、2月には二・二六事件が起り、そのニュースをラジオ室で聴いた者のロから伝えられ、自分で新聞を読むこともできない盲人たちにとってただ驚きであった。
 8月7日には会堂南の通路に面して細目の庵治石で皇太后様の御歌碑が建立され、暑い日ではあったが、除幕式には大勢参加して職員と共に御歌の合唱をした。
 この頃、所内ラジオのスピーカーが1棟の中央に1個ずつ備えられ、10月23日初めて放送が流された。しかし、音量が低く部屋に寝ころんで聞くというわけにはいかなかったが、スピーカーの近くだとニュースや浪曲、落語、漫才、流行歌など楽しむことができ、盲人にとって画期的な喜びであった。所内ラジオの設置によってラジオ文芸がはじめられ、毎週1回短歌、俳句、詩などが交互に募集された。入選者には僅かながら賞品も出て、短文芸熱が盛りあがり、盲人にとって大きな励みとなったのである。
 11月6日には、真言宗高野山派高松和衷会、東本願寺その他の寄附によって、丘の上に立派な納骨堂が完成、多くの僧侶を迎えて落慶式が行なわれた。また同じ頃、北の山の南面に皇太后様のご下賜金によって東屋風の建物が建ち「雲井寮」と名付けられた。相愛の道を散歩する盲人たちにもよい憩いの場所となった。
 12年の5月27日には会創立5周年記念式を午後1時より会堂において行なった。外島保養院の盲友も含めて大多数の会員が集まり、藤田副会長の司会で重富会長が挨拶に立ち、「自治会の深いご理解と後援団体の皆さんのお世話を受けながら、遅々とした歩みではありますが、台詞劇を通じて一般入所者との交流にも心がけてまいりました………」と述べ、つづいて河村主事、石本自治会総代の祝辞のあと、募集していた文芸の人選発表がなされた。翌28日の午後には会堂において、台詞劇「盲目の弟」、「袈裟御前」を演じ、少年少女の童謡や遊戯の賛助出演もあって、意義ある記念行事となった。毎年、青年団、婦人会の奉仕によって不自由寮の大掃除が春と秋に行なわれていた。その時には邪魔になるので、避難をかねて会堂に集まり総会などが聞かれた。見えない者同士の気安さから話がはずみ、時のたつのを忘れ、大掃除の終った夕食前解散していた。

 




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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