わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第2章 脱 皮(昭和26〜34年)

 11 盲人に白杖を
            北 島 澄 夫

 私が入園した当時の義足といえば、園内で造られた大島製のものが使用されていた。それは、ブリキ板で造った円筒の先に桐の木で足首をつけただけのもので体裁も悪く、歩いていてぬげそうになったり、傷を作るなど事故も多く、代用の足というには余りにも粗末なものであった。
 殊にこのような義足を両足にはいて、園内作業に従事している人達の後姿を見ると、何とも危なっかしくて肝を冷やしたものである。
 あれから10年余り経った現在、療養所の設備においても幾つか進歩の跡を見出すことが出来る。義足もその一つで、履いて歩けさえすれば良いとされたものから、一応社会並の体裁と安定性のあるものに改良され、足許を気にしなくてもすむようになってきた。
 だが、それに引き替え盲人の杖は、相変らず裏山から切って来るムロの木の杖や、ろくに節も取っていない名ばかりの竹の杖である。さぐれさえすれば、使えさえすれば用が足りる、という考えの域から一歩も出ていないように思われる。義足が今のように便利で立派なものになったのは、その必要度からいって当然のことであろう。昔から一眼二足といわれ、いずれも重要視されてきたにもかかわらず、その一方には改良が加えられ、私達の杖は何時までも放置されていて良いのであろうか。
 義足がその人の足であるように、杖もまた私達の目である。従って、それには一人一人の血が通っているといっても決して過言ではない。しかし、現実は少し杖に冷たいようである。それというのも、義足はかけがえのないもので、それをつけなければ一足も歩くことが出来ないし、粗末なものでは傷を作ることから、比較的周囲の理解も得られやすいのに比べて、盲人の場合は棒切れを使っても、人の肩をかりてでも、歩こうと思えば歩けることから、案外気付かれずに見すごされているのではなかろうか。
 だからといって、この杖を振りかぎして、不相応なものを要求しようとは考えていないが、それぞれの身に合った杖が欲しいと願っているのである。それには一般社会の盲人が使っている白杖のように、にぎりがかぎ形になっているものや、折りたたみ式のもの、または滑り止めなどの工夫がされているものが、色々の点から考えてハンセン病盲人に適していると思う。ともあれ、畳のほこり叩きと間違えられるような杖でなく、私たち盲人の歩行の安全を守ってくれる白杖を支給してもらいたいものである。
 義足の補修に当ててなお足りない涙ほどの身障費でなく、盲人にとって欠かすことの出来ない白杖や、保護眼鏡等の予算も含めた身体障害者諸費の増額実現のために、私たちもまた一層の努力と運動をしなければならないと考えている。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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