わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

目次 Top


第1部 光を求めて

 第4章 飛 躍(昭和43~50年)

 33 眼科医を求めて
            福 家 孝 志

 眼科医の高橋先生が最近お体の調子が悪く、42年春に呉病院へ入院された。その間私たち目を患らっている者の不安は想像にあまるものがあった。そんな状態で、同じ境遇にいる者数名が集まり、その対策などについて話し合ったことが動機となって、弱視者グループが誕生したのである。
 そんな私たちの願いが聞き入れられ、園では光明園の医局と交渉の結果、塩沼先生が月に1、2度診察に来て下さることになり、どうにか急場をしのいでいた。しかし、塩沼先生は海上数時間もかかって来られ、とどこおった眼科診察を僅か半日の間に行なうことは、健康的年齢的にも気の毒なほどであった。そうした関係で、病友の中には、熊本の恵楓園まで開眼手術を受けに行く者が出てきた。手術を受けてきた矢野さんが、行く時には0・02であった視力が今では0・3にまで良くなったことやあちらでの手術の様子を、如何にも嬉しそうに話してくれた。これが私たちに希望と刺激を与えたのである。盲人会では期の初めに世話係によって会員の意見聴取を行なっているが、その中に眼科医招聘の件が出されていた。会では早速自治会を通して、この切実な願いをかなえて欲しい旨医局へ要請してもらった。すると一般入園者からも同じ希望者が出てきて気運が盛り上っていったのである。
 その後、どうにか健康を回復された高橋先生によって、時間と人数の制限はあったが診察が行なわれるようになった。しかし病後のことでもあり、先生に無理がゆき診察も長続きはせず、結局園外から眼科医を招聘することに先生も同意された。
 その頃であったが、愛生園の整形外科の橋爪先生が来られ、手足の整形手術が受けられるようになり、その恩恵に浴する者が出はしめた。そんなことがきっかけとなり、私のうちでくすぶっていたものが目覚め、盲友や弱視の仲間をたずねて、恵楓園の眼科医を当園に来てもらうことは出来ないものか、また他に良い方法はないものか、などと相談を持ちかけて歩いた。すると矢野さんから、遠い九州から診察に来てもらうことはとても無理だろう。だから、近くの徳島医大から来てもらう方法が一番可能性もあり、将来性もあるのではないか、という意見を間くことが出来たこの話しが次つぎと目の悪い仲間に伝わってゆき、集会を持つことになった。図書室に20名余りが集り、徳大の先生を招聘してもらうことに話は一致し、「弱視会」を作ることになった。代表には土居さんをお願いすることにして集会を閉じた。
 その足で私たち数名が自治会事務所へ行き中石会長に会った。会長は、以前から皆さんの要望を医局にお願いし、恵楓園にも書面で依頼しておいたのだがどうも見通しが暗い、との連絡があったことを聞かされた。そこで土居さんから、今会合で話し合ったのですが、徳島医大の方へお願いして頂きたいのです。出来れば園長、医務課長に会って、直接私たちの声を聞いてもらいたいのですが、その手続きを取って下さるようお願いに来たのです、と話すと会長は、それは良い。啓蒙にもなることだから、実現出来るよう頼むことにして、連絡は後でします、との回答を得た。
 7月6日大島会館において、園長、医務課長と懇談を持つことになり、希望者40名余りが定刻10時半に集った。医務課長は、こんなに大勢の希望者がいるのですか、と驚いておられた。中石会長の挨拶のあとで、弱視会代表の土居さんは、目をおかされた者の苦しみや、開眼手術の可能な者には一日も早く手術を受けさせてほしいことをお願いした。また口々に、光りをうばわれることのやり切れない心境や、手術をして良くなるものであればなんとかその方法をとって下さい、と叫びのような訴えをした。それに対して園長は、徳大であれば三木先生だが、もし駄目な場合は、大阪医大の山地先生ではどうかね。山地先生は医務課長も知っておられるし、戦前当園に来てもらったこともある方です、と言われた。結局、三木先生に依頼することに決まり、医局との懇談は終った。
 その後、9月の初めになって、医務課長が徳島の方へ三木先生招聘の件でお願いに行かれたことを聞き、結果を私たちは待っていた。その交渉過程を自治会を通じて聞いたところでは、三木先生はご病気のために会うことが出来なかったが、講師の田村先生が、それほど患者さんが困っておられるのであれば、三木先生に話して私が診察に行ってあげましょう、との話しであった。そして、9月18日に田村先生が来園されることを聞いたので、私たち47名は、先生を迎えるに当っての打合わせなどのため集会を持った。先生の出迎えや見送りも全員ですること、また診察の順番は混雑をさけるため寮号をおって16名づつ3班に分けて受けることにした。
 明けて18日今日は田村先生が来園される日である。私はほかの治療を早めに済ませて桟橋に出迎えに行くと、既に大勢の会員にまじって、自治会長をはじめ、医務課長の顔もみられた。間もなく新造船「青松」から田村先生が降りて来られ、医務課長より紹介された。先生は私たちの出迎えに恐縮しながら課長に案内されて事務本館に行かれた。そして休養をとられる間もなく、午前10時30分より診察に当たられた。
 私の順番がきて椅子に腰をかけると先生は、いつから悪くなったのか、と尋ねながら、左の方は手術の可能性があると思う。右は調べてみないと分らないが眼圧を計ってみよう、と点眼をして下さった。診察台に横になって眼圧を計ってもらうと、右の方が少し高いとのことであったが、これ位ならやれるかも知れない、と言われた。診察は午後も続けられ、3時半頃やっと終った。私たちが待っていた所へ田村先生が来られ、手術可能な人がかなりあるようですから、参考のため古いカルテを5時頃まで見せてもらい、帰ってから検討してみることにします、と言われたので、私たちはお礼をのべて帰った。
 夕方便で離島される田村先生を見送りに行くと、そこには会員でない人たちもいた。間もなく医務課長と共に田村先生が来られ、出来るだけ早くあなたがたのご期待にそえるようにしたいと思いますので待っていて下さい、と言われた。それへ中石会長や土居さん、見送りに来ていた者は心からのお礼をのべ、感謝をこめて遠去かって行く田村先生の船を見送った。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


Copyright ©2008 大島青松園盲人会, All Rights Reserved.