わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第1章 離 郷

 2 山 雀            故 田 原 吾 一

 

 私が島に来て、行李の紐を解いたのは昭和14年11月20日、30歳の時であった。その頃はかなり元気であったので、園内作業ならどんな仕事でも出未ると思っていたが、唯ひとつ出米なかったのは肥料あげであった。しかし、これも誰かがしなければならないと思い、1回目はなんとか頑張ってやったが、次には作業部に行き、赤くなっている肩を見せて、ことわった。というのは、百姓仕事はしたことがなく、担ぐことは苦手だったからである。
 私は15歳の秋、鮪船の飯炊きとして月30円で雇われることになった。両親は、そんな荒海の中に行くのは危ない、と言って反対したが、私は機関士になりたいという希望があったので、反対をおしきって行くことにした。大正末期で月30円といえば、近所の人からも羨まれるほどの大金であったが、太平洋の荒海の中での飯炊きはなまやさしいものではなかった。幸い私はどんな時化でも船酔いをしたことがなかったので、船長も特に目をかけてくれるようになった。17歳になって間もなく、機関室の1人がやめることになったので、船長が、
  「その代りに、お前がはいれ」
 と言ってくれ、その日から見習いとして機関室で勤めることになった。鮪釣りの漁場としては、北は北海道から、南は九州・種子ケ島沖であった。そして私は20歳の時、待望の機関士になることが出来、年中荒海の中で、病気になるまで慟いてきたのである。
 家を出る時、妻に、
  「2、3年も養生すれば、きっと治って帰るから……」
 と言って、安心させて島に来た。そして毎日熱心に治療を受けていたが、その効果もなく、17年の春頃から左足首がさがり、手の指も次第に麻痺していった。故郷からは矢のように、帰って来い、と便りが来るので、いつまでも隠していることが出来ず、本当のことを知らせてやることに決心した。そして手紙を書きはじめたが、私の帰りを待ちわびている母や妻が手紙を読めばどんなに悲しむことか、とペンを止めて涙を拭かずにはおられなかった。 手紙を出してしばらくすると、事務所の小使いさんが、
  「面会です」
 と知らせてくれたので、急いで面会所へ行ってみると、10歳になる長男が、
  
 「父ちゃん、あした一緒に帰ろう」

 と言って、すがりついて来た。妻は、
  「あなた!」
 と言って、泣き、
  「きょうは帰るか、明目はもどるか、と楽しんで待っていたのに、そんなに足が悪くなっては……」
 と、肩をおとしてくずれ、つりこまれて私も泣いた。妻の落ちつくのを待って
  「こんなに病気が悪くなっては、くにへ帰ることも出来ない。お前も不運な星のもとに生れたと思って、諦めてもらいたい。それにしても、子供のことが気にかかる」
 と言った。すると妻は、
  「子供のことなら、お母さんと2人で立派に育てますから、あなたは心配しないで養生して下さい」
 と、心づよいことを言ってくれた。
 その日は夜おそくまで、生活のことや子供のことについて色々話し合い、私が部屋へ帰ろうとしたとき、妻は、  「4、5日前に未たんヨ」
 と言って、1枚のハガキを出してくれた。それは、1年余り不通であった弟からの軍事郵便であったので、私はうれしかった。
 翌朝、妻子を見送りに出ると、子供の手を引いて力なく桟橋の方へ歩いて行く妻が、3人の子供をかかえて、厳しい戦の中を生きぬいてゆこうとしている姿が、私は哀れでならなかった。
 国をあげての戦もむなしく敗戦に終った。心配をしていた弟も無事に復員し、姉の計らいによって、私のあとを弟が継ぐことになり、すべて円満におさまることが出来た。そして、あの日の長男も28歳で嫁をとり、今では可愛い孫が出来て、時どき写真も送ってくれるし、これからは孫の成長をたのしみに、気楽な療養生活を送りたいと思っている。

 




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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