わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第2章 失 明

 18 目の悪かった頃            坂 田 和 人

 昭和48年3月の或る朝、目が覚めると左の目が全然見えなくなっておりました。私は驚いて眼科に行き診てもらったところ、眼圧が50近くに上がっているとのことで、眼圧を下げる薬をいただき、1日3錠ずつ服用しました。すると眼圧は日一日と下がり、視力も徐々に回復してきました。まだその頃は右目はよかったので、左目が少し落着くと安心して、目が悪い間止めていた好きなアルコールも、また少しずつ飲むようになりました。
 そして7月、太陽が強く照りつけるようになった頃、再び眼圧が高くなり、最高は70近くまで上がっていたようでした。当時は、担当の先生が病気がちで定期の診察もなく、その上長い間勤めておられた酒井看護婦さんも病棟勤務に代られたりして、日増しに悪くなる左目の手当が十分してもらえませんでした。そんなことで、角膜の内側が化膿していることもわからないまま、適切な処置もなくだんだん膿がたまり、気付いたときには既に手遅れの状態になっていました。その時思ったことは、身近に専門の先生や馴れた看護婦さんがおられて、もっと早く疾患に気付き、十分な手当を受けておれば、左目も失明にまで至らずに済んだと思います。しかし、左目の手当が遅れたために、右目にその影響が出るのではないかと恐れていましたが、それが現実となって、右目が悪くなり始めたのは間もなくのことでした。
 11月になって、待ち望んでいた、善通寺病院の眼科専門で、白内障などの手術もしてもらえる井上先生が週1回来て下さることになり、病棟に行っておられた酒井看護婦さんも、目の悪い人達の強い要望で再び眼科勤務となったので、眼科の治療は最もよい状態になりました。けれど私の右目の白内障は次第に進み、左目の眼圧も下がらず、このままでは右目も失明するのではないかと案じ、右目を守るために、左眼球摘出を早くしていただくよう先生にお願いしました。先生は何とか眼圧を下げる治療をしてみましょうと言って、40年4月に手術をして下さいましたが、その効果もあまりなく、とうとう5月に左眼球摘出の手術を受けました。こうしてあらゆる治療をして頂いたにもかかわらず、初期の手当が遅れたために、眼球を摘出しても右目の視力は衰えるばかりで、50年頃には杖に頼らなければ歩くことも出来なくなり、盲人会に入会させてもらいました。
 52年1月19日、右目の白内障の手術を受けることになりました。幸い手術は成功し、視力も順調に回復してきましたので、もう少し日数が経てばもっと視力は出るだろうと期待し、喜んでおりましたところ、これまで使用していました目薬が、私の体質の変化で副作用を起し、折角回復していた視力も1日のうちに零に近い程落ちてしまいました。しかし先生や看護婦さんの行き届いた手当のお蔭で、視力も少しずつ回復し、馴れた道であれば一人で歩けるようになりました。また最近では晴眼者に手伝ってもらいながら、鉢植のさつきを部屋の前に並べ、水やりなど世話をして楽しめるようになりました。これもみな眼科の井上先生や、看護婦さんのお蔭だと感謝しております。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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