わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

目次 Top


第2部 「灯台」の群像

 第2章 失 明

 21 くちなしの花            石 本 暢 子

 昭和54年10月26日の朝、夫は脳内出血のため突然召されて逝きました。生活を共にするようになりましてから32年と7か月、そのうちの22年は私が盲人になったため苦労のかけ通しでした。私が失明した頃のことです。ひとりで泣いていましたら、夫が私の背を優しく撫でてくれ、「夫婦共に目の見えない人たちもいるではないか。自分たちにはまだ二つの目が残されている。元気を出せ!」と慰めてくれました。そのとき私は目の見えないことで今後決して泣くまい、泣いてはならないと思いました。夫は新聞や雑誌に盲人の記事が載っていると必ず読んで聴かせてくれ、それとなく励ましてくれていました。弟夫婦もよく面倒をみてくれますし、教会の方々や友人たちも優しい言葉をかけて下さいますので、本当の盲人の不自由さ辛さは感じなかったように思います。いつも夫に腕を組んでもらって歩いていました。
 亡くなる前の日、午後の特別礼拝に教会へ連れ立っていっしょに歩いたのが最後となりました。夫は松本先生や松岡看護婦さん、そして山谷さん、弟夫婦たちの見守る中で、ひと言も言い残さずに召されてゆきました。私が夫の生命をすりへらしたのではないだろうか、そうした思いの中に、「主が与え、主がとり給う。主の聖名はほむべきかな」というヨブ記の聖言が与えられました。多くの病友たちの涙に送られて召されていった夫はしあわせ者ではなかっただろうか……。このような気持になりましたのは、かなり日も経ってからのことでした。
 福祉室から、「独身の第一センターに移ってはどうですか」というお話しがありましたのは、夫が亡くなって3か月目のことでありました。荷物の整理もありますので急に返事はできませんでしたが、4月の末に移動するということで、しぶしぶ承知しました。返事はしたものの、第2センターでは食事が個室に配膳されておりますが、第1センターに移れば食堂に行かなければなりません。皆さんについて行けるだろうか、とそのことが気がかりでした。
 荷物の整理にかかりましたが、一つ一つの品物に思い出があってなかなか棄てきれません。他人様がみられたらあんな物をと思われるような次の二つの品物があります。そのうちの一つは三巾ものの風呂敷で、夫は衣類の入れ替えをする度ごとにそれを広げ、感慨深げに、「この風呂敷はうちのおばあさんが手織の布で縫ってくれたものだ。大正8年の7月11日大島に来るとき、着替えの着物を包んで持ってきたものだよ」という話しを、何度も聞きました。もう一つは目覚し時計で、これは夫が昭和の初め頃養鶏の作業をしていたとき買ったもので、私と暮らすようになってからも、毎晩9時になるとキチンとネジを巻いておりました。手が悪いのでネジを挟むのにネジ廻しを作ってもらっており、それを毎晩使いますので、夫の手の脂で黒檀に磨きをかけたように光っていました。風呂敷も時計も私は使いませんけれども、夫の忘れ難い品物ですので、2つとも第1センターヘ持ってゆくことにしました。
  第1センターに移ってみますと、皆さんから気安く声をかけて下さり、思ったより明るく、そして逞しいなあ!と思いました。また担当の盛岡婦長さんが、「用事があったら遠慮せずに何度でもインターフォンを押して下さいね。それから、石本さんは入れ歯ですか」と聞かれましたので、私が返事をしますと「それでは看護助手さんに入れ歯も洗ってもらうようお願いしておきますから」と言われました。やっぱり第1センターの方が手厚い看護だなあと感じました。
 心配していた食事のことは、看護助手さんが2、3度食堂まで誘導して下さり、それでどうにか一人で食堂へ行けるようになりました。私は朝はパン食なので、6時15分頃食堂にゆきますが、行った順番でパンを焼き、牛乳を温めて下さいます。多いときで7、8人、お茶などを飲みに来る人もありますが、それでも朝が一番ゆったりとくつろいで頂けます。食事が済むと看護助手さんが、「ハイ、おしぼり」と温かいタオルを手渡して下さいます。昼食と夕食はそれは賑やかで、ちょっと驚きました。私は夫婦寮でゆっくり食事をする癖がついていましたので、看護助手さんが、「急がなくてもいいんですよ」と言って下さいますが、食事を済ました人がつぎつぎに立って行く足音を聞きますと、気が急いてもごもごと呑みこんでしまい、とうとう胃を悪くしてしまいました。
 昨年は私の持病の胆石で腹痛を起こし、病棟へ2度も入室しました。寮で10日位寝ていたのですが、部屋まで食事を運んで頂き、看護助手さんには大変お世話になりました。また先生方も気軽く度々往診に米て下さいましたが、そのとき感じたことは、四畳半にお布団を敷いていると、往診に来て下さっても先生に坐っていただく場所もありません。また配膳してもらっても食卓を置くところもなく、押入れの物を出してもらうにしても、お布団を踏まなければなりません。せめて六畳の間であったら……とつくづく思いました。
 ここに来ましてからくにの母と叔母が亡くなり、そして2か月目に私が最も頼りにしております弟の嫁の由枝さんが、急に腰が痛くなって入室しました。ベッドで痛みに苦しみながらも、私が不自由しているだろう……と私のことばかり気遣ってくれるのです。そのような心の優しい義妹なのですが、私はどうしてあげることもできません。ただ神様にお癒しをお祈りするばかりです。幸い少しずつよくなって、近頃では杖をつかずにぼつぼつ私の部屋まで歩いてこられるようになって、話し相手をしてもらっています。「あまり無理をしない方がいいよ」と言いながらも、今晩頃は来てくれるのではないか、と心待ちにしているような私です。
 第1センターに移ってから2年と2か月が過ぎました。「はやそんなになりますか」と言われますが、私には長い年月であったように感じます。あらためてふり返ってみますとき、多くの方々の力づけや励ましのあったことをありがたく思います。夫の亡くなった26日を憶えていて、毎月のように訪ねて下さる方もあり、日曜の度に礼拝に誘って下さる方もあります。またお野菜やおかずも届けていただき、一方的にお世話を受けております。その嬉しさを毎日夫にひとり話しかけています。
 今年も夫の好きであったくちなしの花の咲く頃となりました。「庭のくちなしの花が一輪咲いたぞ」と言いながら、夫がそっと匂わせてくれたくちなしの香りを、懐しく思い出しています。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


Copyright ©2008 大島青松園盲人会, All Rights Reserved.