わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第3章 絆

 30 妻の最後          田 中 京 祐

 外は秋晴れのよい天気らしく、ガラス越しに差し込む陽光で部屋は暖かく、床頭台の上に活けられた菊の香が部屋いっぱいに漂っている。
 午前9時を少しまわった頃、小倉さんがひょっこり訪ねて来られ、
  「ご気分はどうかね。ところで、ナマコを欲しがっていることを聞いたんだが、もう食べたかナ。実は、小さいのを2つほどとって来たのじゃが、食べてみるかね」
 と、妻に言った。
  「ありがとう! よんでやって頂戴。まだ食べてないんです」
 と、重病人とは思えないほどの声を出して、その好意を喜んだ。それもその筈、これまで妻が欲しがっていた物は大抵、芥さんや河田さんに頼み、かわるがわるもってきてもらって、食べさせたのだが、ナマコだけは町へ頼んでも、村へ頼んでも、また園内で海へ行く人に頼んでも、まだ獲れる時期が早いためか、どうしても手に入れることが出来なかった。こんな時、もし私が元気で目が見えていたら、牛の背か馬の背に行けば、たとえ時季が悪くても、潮順が悪くても、病人が食べるぐらいのナマコなら獲って来るのに……と、この時ほど見えぬ目をはがゆく思ったことはない。
  「じゃ、すぐ料理して持って来るから、ちょっと待っとってナ」
 と、小倉さんは急ぎ足で帰ったと思うと、すぐにやって来て、
  「さあ、出来た。食べるかナ」
 と、匙でひと切れ食べさてくれた。
  「あアおいしい。とてもおいしい」
 と、妻の満足そうな声を、そばで聞いている私も嬉しさで.胸がいっぱいになった。
  「まだ少し残っているから、あとで食べさせてもらうとえェ。また獲ってきてあげるから、うんと食べて、早く元気にならんとね」
 と言って、小倉さんは病室を出て行かれ、妻は満足して深いい眠りに入った。
 濃霧が会場を覆ったのか、しきりに霧笛が聞こえてくる。午後8時頃だった。妻の様子が急におかしくなったので、私はあわててベルを押した。すると看護婦さんが急ざ足で来てくれ、注射をうち、しばらく様子を見ていたが、そばに立っている私を廊下まで連れ出し、耳もとに口を寄せて、
 「別に心配はないと思いますが、1度先生に診てもらいましょう」
 と言われた。私は、
  「夜おそくで済みませんが、よろしくお願いします」
 と言い、そして、芥さんと河田さんにも来てくれるよう連続を頼んで、ベッドのそばに戻った。問もなで、芥さん、河田さんも来てくれて、じっと様子を見ていたが、
  「もう長うないかも分らんナー」
 と、私にささやいた。やがて主治医の大島先生が出て来られて、また注射をうって下さり、
  「大丈夫とは思いますが、しばらく詰所におりますから、様子が変ったらすぐに連絡をして下さい」
 と言って出て行かれた。いつの間にか、かけつけてくれた親しい人たちで廊下はいっぱいになった。そのうちに、もう駄目とみてとったのか河田さんは、私に妻の手を握らせてくれた。再び先生か来られ、妻の容態をじっと診ておられたが、緊張した口調で、
  「おくさんの最後の呼吸を聴きなさい」
 と、私の返事も待たず、聴診器をいきなり耳に差しこまれた。初めは唯ごうごうという音ばかりで分からなかったが、全神経を耳に集中していると、かすかに呼吸が聴こえるようになった。妻は生きている。生きて呼吸している。その1息1息がとても尊いものに感じられた。そのうちに、1つ大きな呼吸をしたと思うと、先生は静かに私の耳から聴診器をはずし、
  「ご臨終です」
 と告げられた。そして先生は、
  「私たちの力が足りなかったために、とうとう死なせてしまいました。どうもお気の毒です」
 と言われた。
 こうして、温情溢れる大島先生や看護婦さん、肉親も及ばぬお世話をして下さった芥さん、河田さん、小倉さんやその他多くの病友にいたわられて、父のみもとに召されていった。本当にしあわせな妻であった。
 あれは、亡くなる2日前の午後であった。妻は突然、
  「本当に長い間お世話になりました。もう1度、立ちなおりたいと思ったけど、今度は、どうしても駄目だと思うの」
  「そんな淋しいことを言わんで、頑張るんだ。きっとよくなるから……」
 と、私は言ったが、妻は、
  「もう何も思い残すことはないけど、ひとつ気になることは、あんたは時どき、やんちゃを言うから、共同生活でうまくゆくかと、心配なの。自然のなりゆきにはさからえないのですから、どうか無理なことをしないようにいつまでもみんなに可愛がられて、元気でくらして下さいね」
 そう言い終ると、疲れたのか、それとも安心したのか、口をつぐんで寝息をもらし始めた。私は、あれも聞こう、これも聞いておこうと思ったが、結局何も聞けず、ベッドに横たわって、妻が言った言葉を、頭の中でくり返していた。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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