わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 42 少年舎のころ          藤 田 英 夫

 45年の現在、青松園には子供の入園者は1人もなく、若い人も少なくなり、数年前は成人式を迎える者が1人か2人あったが、今では1人もいなくなった。入園者の数も次第に減り、老齢化が目立ってきている。
 私が入園したのは昭和8年の秋で、小学4年生の時であった。その年の春開設されたという少年舎にはいったが、そこには。子供が12、3人いた。それまでは、大人の1室12、3人の雑居部屋に配属されて、大人と一緒に生活をしていたが、子供はいつも大人の小使いにされていた。それでは余り可哀そうだし、教育上よくないとのことで、少年、少女舎ができたのだという。少年、少女舎にはそれぞれ教師がいて、規則正しい。生活をしていた。別に正規の学校があって授業を受けるわけではなく、治療に通うことが毎日の日課の主なものであった。日曜日にはキリスト教の日曜学校に行った。
 その後、子供の入園者も次第にふえて、数年のうちに男子だけでも27、8名、女子を合わせると45、6名となって、とてもにぎやかであった。病気であるは哀しいことであったけれども、限られた療養所の生活の中にもいろいろと楽しいこともあった。室内での遊びや屋外での遊びのほか、春には潮干狩、夏には海水浴や魚釣りなどして、海で遊ぶことも多かった。また春には、島の西南の山の間に開墾された果樹園に、弁当を持ち船に乗って花見に出かけ、1日中病気を忘れて楽しく遊んだ。
 その頃、園内では野球が盛んに行なわれていたので、お揃いのユニホームを作ってもらいで3組のチームに分かれ、それぞれチーム名をつけて、たびたびリーグ戦を行なったものである。また、クリスマスには、大人の礼拝のあとで、祝会をひらき、寸劇、紙芝居、讃美歌などを歌い、30数年間伝道に来て下さったエリクソン先生から、クリスマスプレゼントを手渡していただいた。それをあけてみるのも楽しみであった。
 その頃は若い人たちが多く、昭和6年に創立された青年団と婦人会があった。それらの人々によって、多くの奉仕作業と年中行事が行なわれていた。春と秋の不自由寮の大掃除、障子張り、綻び縫い、相愛の道や海中の清掃、夜警などもなされ、それに子供も参加して行なう行事もあった。夏には盆踊りが3日間にわたってにぎやかに催され、3日目には仮装大会などもあり、夜通し踊る人もいた。秋の祭りには相撲大会が行なわれ、力と技を競い合ったものだった。運動会には万国旗を四方に張りめぐらし、いろいろな競技で楽しんだ。年の暮になると、朝早くから夜遅くまで、かけ声も勇ましく餅がつかれた。
 戦後は、青年団と婦人会も解散し、少年、少女舎も閉鎖された。私と少年舎に一緒にいた友の中で、社会に復帰出来た者は4、5名で、あとは戦中戦後の食糧難と十分な治療も受けられないまま、次つぎと亡くなり、今では僅か4、5名となっている。園内に若者がいないと、何となく活気がなくて淋しい気がする。しかし、それだけ日本かららいを病む者がなくなってきたのであるから喜ぶべきことであろう。私のように子供の時から病気になり、生涯を療養所で暮らすという悲しいことは、今後再びないことを願うものである。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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