わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 53 交わりの中で          中 井 司 郎

 今朝も蝉が小さな島で力いっぱい鳴いている。少しうとうとしていたのてあろうか聞きなれぬ声に眼が覚め、耳を傾けると、園内放送のスピーカーからぴちぴちした若者の声が聞こえてくる。ワークの学生さん達によって発行されている「潮風」新聞の朗読である。それによると前々から願っていた、北の出にある大島神社の横に建てられたつつじ亭まで、車が行くようになったとのことである。
 私のような盲人にとっては、散歩するのが次第に億劫になって、少し歩けば動悸が打ち、疲れやすく根気がなくなる。毎年1、2度は看護助手さんの誘導によって山まわりをしているが、手術をして関節を固定した足では登り坂は困難で、その上でこぼこがあり大変歩きにくく、もう少し道がよければと思ったことが幾度もあった。その道が学生さんたちによって拡張され、歩きやすくなったことを知って、1度行ってみたいと思っている。
 また午後はワークの学生さんたちが不自由者センターの各個室を訪ねて、直接私たちと話し合いの時を持って下さっている。そして世間話をしたり、歌なども唄ったりする。そうしたとき学生さんたちは私のことを、おじちゃん、おじちゃんと言い、中にはおじいちゃんと呼ぶ人もいる。私は早くから発病しここに来てからもずっと独身でいるので、50近くなった今も気持だけは若く、そういわれてもピンとこない。「どの位にみえるかな」と聞いてみると、60位とか68と言われる。病気のせいで頭の毛が薄くなっているため、そんな年寄りにみられるのだろうと自分の齢をいうと、学生さんたちはびっくりして「すみませんでした」と詫びられたりする。また聞かれるままに私のたどって来た過去を話すと、泣いたり笑ったりしながら感激してくれたりもする。園の機関誌「青松」や盲人会の「灯台」を送る約束をし、学生さんたちも瑕があれば個人で遊びにくるからと慰めてくれる。帰る折にはみんな「来年もきっと来ますから元気でいて下さい」と優しく言ってくれる。
 こうしたことは、私が入園した頃には想像もできなかったことで、若い方々によってハンセン病に対する偏見も少しずつとり除かれていることを、郷里の家族が聞けばどんなにか喜ぶことであろう。こうして入れかわりたちかわり若者達が島を訪れて下さり、私たちの悩みや、寂しさなど共に分ち合おうとしてくれている。このような理解に満ちた若い方々がおられることを、一般社会の皆様にも知って頂きたいと思う。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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