閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第九章
 貧困からの浮上

 20 島の学校(昭和29、30年)

 自治会創立以来、最大の闘争を経てホッとしたところで、長い間の懸案だった規約改正に手がつけられた(29年3月1日)。その主な点は執行委員制の採用、青年団、婦人会の解散、農耕作業の廃止である。
 執行委員制の採用は顧問制にとって代るものである。時の顧問は21年からつづけてこられたのであるが、ここらで休ませて欲しい、民主主義の時代にいまさら顧問云々でもあるまい、という申出を了承、その代りとして考えだされたのが執行委員制である。
 顧問は新任の総代の相談にのり、補佐してきた、いわば新人養成役であった。それを今度は、新人を執行委員として入れ、練達した正、副総代のもとで園内政治の何たるかを実務にたずさわりながら習得してもらい、新人を育てていこうというのである。
 執行委員は総務、経理、用度の3名からなり総務は庶務部、文化部を、経理は会計部、作業部、購売部を、用度は人事部、食糧部、厚生部を統轄した。自治会の企画、運営は正、副総代と3名の執行委員との合議によって進められる。この執行委員制の採用によって若干名の若い正、副総代を育成することができた。
 青年団は創立以来23年、婦人会は21年になっていた。この間、不自由寮の大掃除、盲人会の援助、不自由寮の障子洗いおよび張替え、爪切り、ほころび縫いなど、また秋の運動会を主催するなど多くの奉仕作業を受持ってきたが、問題になったのは、青年団、婦人会への加入が強制的であることだった。入園すると知らぬ間に編入されており、急に呼び出されて奉仕作業につかせられびっくりする仕末、戦時中は殊にこの傾向が強かった。民主化の今日、なるたけ個人の自由意志を尊重、強制的な青年団、婦人会はこの際解散、その後、自発的な青年団、婦人会が生れれば、それこそ望ましいこと、として規約から取り除かれた。しかし、その後青年団も婦人会も結成されることはなかった。
 青年団、婦人会が受持っていた奉仕作業は園内作業に組入れられ、後に看護職員の手に移された。29年の青松3月号には次のように記されている。「患者が患者に奉仕するなどということは最早真の療養所形態への過中にあっては望む方が無理であるかも知れない。」
 園内の農耕地は自治会が買いあげ、農耕作業者がつけられていたことは先に触れられた通り、戦中、戦後の物資欠乏のときにはずいぶん助けられたものであるが、物資が潤沢に出回るようになったこと、軽症者が社会復帰しはじめ作業従事者が不足してきたなどの理由で、農耕が好きな者に公平に分かち、自分の好きな物を植えて楽しむ趣味耕地に転換することにしたものである。
 趣味耕地になって最も好まれて作られたのは西瓜である。暇にまかせ金に糸目をつけず作るものだから、大きく、美味なことで来島者ならびに職員の間でも評判である。
 大きな規約改正はこのあと40年に行なわれ、地区別(障害度別)代議員制となって今日に至っている。

 一病棟が完成した。収容者数34名、浴場、看護婦詰所、宿直室、個室4、入園者にとってははじめて見る立派な病棟であった。(29年8月4日)
 この病棟は完全看護のモデル病棟とされた。看護婦は実習ということで多い目の15名が当てがわれた。しかし保清婦の雇用が間に合わず、止むを得ず入園者の中から4名を臨時看護助手として出した。保清掃の雇い入れも希望者がなく困難をきわめたが、12月に入って実現を見、その日から作業人をひき揚げることができた。

 裏山(北の山)から入園者地区の大部分と西海岸からグランド、本館、海岸寄りの職員住宅地、さらに西のアバギの鼻まで見おろせる丘の上に新らしい校舎が建った。(30年7月7日)教室は4つ、職員室、その上に理科実験室までついたちよっとした学校である。生徒は12名、庵治第二小学校(職員の子や保育所児童の学校)から派遣された教師が2名、入園者の補助教師3名という陣容である。
 大島に寺小屋式の学校ができたのは明治43年で、当時は小学部とおとなの部の2部になっており、「患者中温厚にして中等教育を受け教師として素養ある者二名を選抜し、教務の任に当らしめ、毎日一定の時間割りにより授業を行わしめ――」と大島青松園25年史にある。昭和3年に大島学園が新築された。2つの教室と職員室からなる教室で、島内の分教場より立派なものであった。自治会創立時から入園者の子のうち健康な子は保育所に移り、園が雇った教師の教育をうけた。24年からは、職員や島民の子等とともに庵治中小学校で勉強できるようになった。一方、自治会は娯楽会時代の伝統を受けつぎ、児童教育には力をいれ2名ないし3名の教師を出して教育に当らせた。18年には第二国民学校の養護学級と認められ卒業証書を受けることができるようになった。
 戦後24年から白衣に白帽の先生が1週に1回、養護学級に姿を見せるようになった。子供たちは予防衣をまとった壮健先生になかなか馴染もうとしなかったが、27年に専任教師になってから、児童とともに痛みを分かとうとする真摯な心に、しだいに心を開いていった。
 丘の上に学校が建った年、長島に邑久高校新良田教室が設立された。プロミン治療開始後7年経ったこのころは、軽症な子ばかりで社会復帰の希望もあったし、高校入学という目標もできた。かつてのように「こんな病気になって勉強したって何になるか――」という捨てばちなことば、あるいは「病気が重るまえに死んでしまいたい」という悲痛な声は聞かれなくなっていた。

 ――生徒間にはとみに向学心も芽生えて中一、二年頃から進学を志す者も少くなかった。各学課試験もプリント刷にしてその成績をグラフの一覧表にし、成績の上下によってわたし共も子洪たちと一つになって一喜一憂したことも今では懐しい想い出である。進学準備にこの頃から夜間授業も始められたが、若い希望と熱意に打たれてわたし共もまるで毎日が愉しいほどであった――
                    (島村 亮)
 当時の補助教師の記録である。
 自治会からの補助教師は34年に引きあげ、39年3月の卒業式をもってわかば分校(養護学校)は閉鎖された。わかば分校からの高校入学者は20名(沖縄からの留学生を含む)社会復帰者は、高校卒業後をも含めて24名であった。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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