閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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それぞれの歩み

 文芸活動の歴程

おし着せの手習いから

 開所後4年の大正元年「発句の会(ほっくのかい)」(旧派では俳句を発句とも呼ぶ)が創られたが、入所者の自発的発想ではなかった。前年2月、患者側と親交を図る職員を突如、解雇した「人事係をやっつけろ」と、患者47人が柵を越えて職員地区に入りこみ、官舎周辺をさまよい、ガラス戸1,2枚を割る事件があり、監護員新設等の取締まり強化だけでは、抑えきれぬとみた管理当局は、忿粗暴化の鎮撫工作として「文芸と宗教」の奨励策を講じることにした。まず、手短かな「俳句からやらせよう」と、近在の隠居宗匠を招き、蕉風派という古風な俳句作りから学ばせ、ついでに、和歌も知ってるから教えよう、となり、曽保登会というのが、後で生まれた。
 治安統卒を初期の重要施策とした当局の記録には、随所に文芸普及の意図が窺え「暗い中では暗いことのみ語らい、賭博、逃走など謀り勝ちだが、大正11年、電灯発動機据付けにより俄かに、読書や文芸勉強の気風昂まり・・・」(25年史)とある。おしきせの、内輪だけの手習いでは、いか程普及し血肉化したかは、定かでない。20年近い中で傑出の作者に授与した雅号だけが、何人かに長く愛用されており、その上級らしい「三楽園穂波」は、腕だめしと金欲しさで外の懸賞募集に投句し続け、遂にT新聞で30円の大賞を得た。ハガキ1・5銭のころで現価換算4、5万円の高額だが、その賞金は「私の亭主が同郷で、負けバクチの支払いに、そっくり借用、そのお礼に私は、長田さんの身の回りを、お世話するようになった」と岸野拙女の談話記録にある。続いて、佐藤藤歌(和歌だろうか)が、特賞50円を穫り、全入所者に「紅白の餅を配って」祝った。との逸話だけが、当時を伝え残している。
 全国から四国霊場へ逃れ寄っていた浮浪者を狩り集め、開いた直後の当所へ、先の穂波こと長田嘉吉は、18才で自宅から入所した。初めから異端視され、生意気だと睨まれ、その打ち消しに腕に刺青(いれずみ)し、けんかもした。だが、学校中退が何より悔しい彼は、どんな環境でも勉強だけは続けよう、と小机や書籍を持参し、毎日机に向っていた。ある日、男たちが来て「ここでは勉強は要らん!どうせ、飼い殺しじゃけに」と机や本を外へ放り出し、寮での勉強を阻んだ。彼は山の小穴を新たな勉強場に見つけ、寝食に帰るのも忘れがちに、前にも増し猛勉強した。元より独学だが、無頼な島風が反面教師でもあった。途中から聖書研究に打ちこんだ彼は、20余年の蓄積を一気に吐き出すように、昭和3年から20年死去の間に14冊の著書を相次ぎ出版した。その主なものは、

(種類)  (題名)    (初版日)  (版数)

詩  集  霊魂は羽ばたく  3年5月   9版

療養物語  みそらの花    3年6月   2版

詩  集  霊火は燃ゆる   5年10月  2版

自  伝  小さき者     6年10月

集  光り輝け     6年11月  20版

療園物語  回春の太陽    8年9月   2版

詩  集  燃ゆる心     13年6月  英訳再版

随筆集   穂波実相     13年9月

 ――後は、詩集2冊、修養談話、トライト、闘病記、聖書研究の各1冊。著者の長田穂波は島内キリスト教会のリーダーだったから「宗教色濃いもの」と敬遠され、島内では左程よまれず、評価は外部で高まったようだ。健常者に深い感動で読みつがれたらしく“島の聖人”“哲人穂波”などの尊称も、外の人々の言いであった。「霊魂は羽ばたく」の序文で、晩年の与謝野晶子や賀川豊彦は、次の讃辞を寄せている(断片抜粋)

晶子「私は長田さんの詩を、同じく艱難の道にあって、私よりも遙かに早く絶対の世界に歩み入った苦業の人の消息として愛誦します。信仰の人と併せて詩人の天分を持たれ、明暢廼麗(しょうれい)な修辞を駆使して、讃美歌臭味を脱した新篇を創造せられた・・・」

 豊彦「この魂の彫刻家の作品を読んで、私は新しい自分を発見した。その音律の床しさ、ピッチの高さ、語気の強さ、魂の清朗さに交響楽を聴くような気がした。彼は永遠を凝視め(みつめ)、死を離れている。涙の中に浄化を確信している」

 重版も加えた穂波著書の総部数は、ハ氏病筆者での恐らく最多だろう。多くの人々に読まれたということは、本物の書き手だった、と言えよう。症状と苦闘を識る田中文男博士は彼の遺業を“奇蹟”と評した。島内語で擂粉木(すりこぎ)とよんだ指の欠けた手にペンを結び、頬で支え、営々と書きついでいった姿は、まさしく「精魂傾けて」と表して過言でない。著書の他、教会通信「霊交」主筆を20年、修養団支部報「つばさ」を独自で発行とか、園誌「藻汐草」に“松籟海鼓”と題して多年連稿するなど、寸刻も休まず読み書きした真摯な努力と情熱には誰しも舌をまき、畏敬のほかない。当地の開拓史でもあり、文筆の先達記ともいえるので、紙数を費やし紹介した。

「藻汐草」発行と外部指向の胎動

 自治会発足につれ、俳句会と短歌会は学芸部所管に属し、会の維持費を補助され、合同集会などは学芸部が主催した。「藻汐草」発刊は7年4月で、職員編集の療養所機関誌の形だった。季刊、隔月刊、月刊と進み、部数も300から5、600部へ発展(戦時節約で19年7月休刊)。これを読んで「和歌や俳句を作る心のゆとりがあるなら、想像ほど恐ろしくもなかろう、と入所を決意した」など、世人に内状を伝えた。始めて活字になり、外部にも読んでもらえるなら、と随筆などの書き手も現われ、寄稿者は徐々にふえた。所長始め事務や医局の職員も執筆し、保育所児童や養護学級生の作文も載せたので所内一括というか、その頃、唯一のコミニティ風でもあった。歌壇、俳壇の特設頁があり、藻汐短歌会、邱山俳句会の公称が用いられたが、選者のない初期の作品は、手慰みの域を出ず、月並みの望郷歌や薄っぺらな感傷句が殆んどだった。
 その2、3年分を集め、初の公刊単行本で合同歌集「藻の花」が10年11月に出版され、その選後記に内務省高野予防局長が「名手になると苦痛が伴う。病者にあっては“楽歌三味”という気風が望ましい」と書き、その作品程度と、管理指導者の意図を暗示している。翌年、合同句集第1巻の「邱山」が公刊されたが、同様に評価以前という他ない。
 当時は無癩県運動で年々定員増が続き、自宅からの入所者が大半となり、若者も急増したが、劣等感や宿命観に覆われた風潮は依然尾をひき、何事にも“穀つぷし(ごくつぶし)”“度敷豚”等の自嘲語が決め手にされ、強い者は、わざと悪者ぷり、弱い者は卑下忍従の諦めに沈潜する、などが通常だった。「生きる屍」とハタ目に書かれたりした。自らを頽落視することは、何とも惨めでやり切れない。この埋没を這い出て「せめて、心だけは喪いたくない」手合いが、顔かたちの欠陥を心で補なうべく、自己主張もできる文芸を目指したのである。頭を痛め病気を重らせるだけじゃ、などの陰口は島の常で、勿論、承知の上である。ところが文芸理解者の選者に、同様の見方で「楽歌三昧でえエ」ときめつけられ若者連中は「見下げた偏見だ」と怒った。年輩が、それを制し「今のままでは、愚弄されても反論できぬ。真剣に本腰人れてやらなきゃ」と諭し、外の専門誌に参加し「世人に互して勉強しよう」と発奮を誓いあった。折よく、恵楓園から小塚龍生先生が薬局長に来任し、尾上柴舟主宰の短歌誌「水」(みずがめ)の同人なので、藻汐歌壇の選と指導に当ってくれ、その紹介で笠居と綾井が水甕社に入社、続いて小見山と浅野が北原白秋主宰の「多磨」に、大高が佐々木信綱主催の「心の花」、静森、泉らが地方誌「山脈」へ、入会または投稿することになった。
 そして13年、改造社特集の「新万葉集」にハ氏病者43人の歌が採用され、当所の小見山、合田、大高も含まれたが、特に愛生の明石海人作が第一巻で大家並みに多数選ばれ、歌壇全体に注目され、続いて同氏の歌集「白描」と小川正子の「小島の春」が出て、新聞・雑誌等に一時、もてはやされ、歌壇では「らい短歌」の呼称も生じた。11年の北条民雄の小説「いのちの初夜」の先ぶれもあり、全国療友の文芸熱をそそり、外部の先生方や同好者の来島が相次ぎ、13年だけでも俳句では、大阪の医師本田一杉(鴫野主宰)高松市の佐々水分令山(屋島主宰)。短歌の方では、東京の山下陸奥(一路主幹)、県内の「多磨香川支部歌会」(荒木暢夫会長―白秋高弟)が訪れ、目を開く刺激となっている。
 俳句会の外部出稿は、高女校長など勤めた大塚が入所「新俳句に変わるべきだ」と神戸の「雁来紅」誌へ書信し、野田別天楼主宰が来島して「会費無用でよい。自由に投句せよ」との理解を得た。続いて高松市「紫苑」の白川朝帆主宰が訪れ「この島の土となる身を耕せる」の秀句を産み、藻汐俳壇の選者を引受け、自誌への自由投句も認め、県内の「屋島」「椿」もこれに同調(椿の三浦恒礼子主宰は後年、「青松」邱山集選者もつとめた直接の指導者)。その上に、前記「鴫野」は、全国の貧しいハ氏病作者を対象に創刊された俳誌で、門戸解放の最たるものだった。こうして10年頃、一気に数誌の投句先が展けたが、当時の俳句は墨書稿なので盲人の代筆は、短歌会員が手分けして奉仕した。両会の連携は密で運座会や観月会も合同でやり、外来者を迎えての句会・歌会にも両会員出席で、数十人が学んでいた。
 10年6月設置の印刷機での月刊別刷り「藻汐短歌」(11~18年)や、藻汐草俳壇を読んで県下の歌会、句会が相次ぎ合同研究会に訪れ、職員幹部らも臨席した。
 儀札ぬきで、のっけから作品中心だけの質疑応答や、熱っぽい批評交換に終始するのが常で、健常者・病人の区別介入のスキもない雰囲気は、職員たちには奇異な驚きのようだった。病者側も始めは面くらうギコチなさながらも、同好の率直さで応対し、興奮と鮮烈な感慨をその都度生じ、日ごろの疎外感や差別の凝固からかいま放たれ、人間回帰の誘いすら覚えたりした生なましい接触だった。
 この時の誼みで多磨同人の脇須美、一路同人の林政江の両先生には、藻汐歌壇の選者として(11~19年)懇切な指導を得た。
 こうした外からの刺激で、「職員と患者」の文芸集会が始まった。開所以来のことだ。患者と同格で物を学ぼうなんて事は、職員大方が最も嫌がった時代だ。潜在保有の優越感の伝統をふみ破り、脱皮しようとする一部職員の、勇気と良識の進出である。万年雪の冷たい壁に、のぞき穴があくだけで、互いに通いあうものがあった。池田婦長や滝川、岩田信看護婦らの手作りの団子で月を賞味した。遠い日が忘れがたい。
 「文章会」は非公認ながら、前者より更に一歩ふみ出たユニークな集団で、青山医官、久米良係長、井村編集長ら若手職員と、土谷勉、氷見裕、広田大作ら主役級に、初心者の端役数人が加わり、国家社会の情勢や、所内万般を俎上に乗せ、無礼不遜な毒舌評や、気随気ままな“放談会”で夜を更かし、時に、激論たかぷる喧嘩別れで、翌朝“取り直し”するなど、共に、身分の垣根なんて“糞くらえ”とする痛快な集まりだった。戦争さ中に、言いたい三味の斜すかいの目で、自由奔放な批評や諷刺が平気でやれたのは、離れ小島の特権でもあった。
 こうした下地から、永見裕著「癩人文学」(12年)。土谷勉著「昔のらいのこぽれ譚」(23年)、「らい院創世」などが生まれ、世に出ている。(35年解散)
 14年、始めて海を漕ぎ渡った「果樹園吟行」の清雅曽遊は、斬新躍如な感動だった。職員や高松からの脇先生らは、尾根伝いに歩いて参加したが、外界での出会いには肉感の親しみを覚えた。島内ながらも職員区西南端の人里離れたそこは、解放感と野趣溢れる別天地だった。吟行帰りの感激が伝わり、一般の行楽行事へ発展したが、今日のバス旅行以上の、ウブな歓びだった。
 「藻刈俳句会」は「つれづれ短歌会」だけだった職員側の新会派で、15年頃から邱山会と合同の月例句会が持たれ、18年、林東風(文雄)先生着任で俳句会全体が活気づいた。文芸全般にそれが波及し、幅広い文雄芸術の天分と情熱、高い識見、近代的感覚などに皆が魅せられ、誘われた。誰彼なく、秀句、凡作を問わず、克明な批評文を渡され、励みをそそられた。時には、厳しい注意で真剣な取組みを促した。血の通う抱擁力に誰もが心服、師事し、敬慕した。そうして初めての個人歌集「松の花」(合田とくお)、俳句集「鵜飼」(喜田正秋)の自費出版を見た。俳句の“ホトトギス入選”も薫水、爽子、自然坊と相次いだ。
 同人誌「青松」発刊(19年11月)も前記の一環で、藻汐草廃刊で委縮沈黙するべきでなく、形だけのものでも「みんなで雑誌をもっては?」との示唆を得、仲間たちで発足したもの。敗戦色兆ざす貧窮・荒涼下に、せめて惻隠の情感だけでも綴り止めておこう、とのひたむきな思いと、ひもじさに詩情のカケラでも置いて、耐えよう、との素朴な念願でもあった――廃紙ウラや薬包紙に、てんでに書きこまれた生ま原稿の荒綴じは、風流というか、珍妙無類な創刊だった。2年目からは紙型を揃え、やがて謄写刷り原稿紙に統一したが、なま原稿綴じの一部限定は変わらず、主として「園内回覧」に限られた。
 空き腹ながらも、意気軒昂というか、若さと意欲が溢れていたし、戦後の「療園再建」の涙ぐましい情況等も活写されており、貴重な史実でもある。23年末の第46号まで続き、活版刷り発行へ移り、自治会誌へと発展する。
 以上、旧憲法下の療園文芸のモメントは、われわれも「人である」との認知届けを、他動的情況に託しゆく“請託”の域を出なかった。必死で訴え続ける中だけで、どうにか人並み扱いも見られる程度?の時世だった。

敗戦後の転回

 公選権や基本人権尊重の民主憲法が施行され、誰でも自己主張可能となり療園全体の思想や風潮も変わり始めた。目ざましいのは若者の決起で、サークル誌が輩出した。

 「若葉」「わかぱ月報」―養護学級生の画文誌。

 「蛙の子」―女子青年のサークル誌で、のち、男子の“底流”と合併して「気球」と改名した。

 「裸」「つみき」―新時代を学習の各グループ誌。

 「スクラム」―青年団機関誌。壁新聞なども随時併刊、先鋭活?で物議を醸したりもした。(29年解団)

 「楓新聞」―保育所発行の父兄通信と児童文集。

 「やたけ」―職員子弟の庵治第二小中学生サークル誌。

 「若草」―看護学院生の校友機関誌。

 「連合奉仕団報」―警防団、青年団、婦人会統合体誌。

 こうしたフレッシュな園内誌の台頭に添い「文芸面の図式にも構造的に、種々の変貌を生じた。

 「青松詩人会」結成(23年)も、その最たる一つで、前記若者たちを中心の20余名の新風集団だった。機関誌も「エチュード」「内海詩人」「海図」と改名脱皮しつつ、異彩を綴った。外部にも注目され、岡山の永瀬清子、東京の大江満雄の両先生の来園指導。高松市「日本詩人」杜の理解を得て投稿するなど、各方面の支援鞭韃に励まされ、31年の合同詩集「花虎魚」の刊行も、かなりの評価を得るなどしていたが、40年「海図」44号を最後に、惜しくも解散。
 現在は、短歌から転じた塔和子ただ一人が、全員を代弁して余るほどの驚異的多作で、旺んな意欲と厳しい詩精神を吐き続けており、個人詩集も既に6冊を出版。その中の3巻が、日本現代詩人会の「H氏賞候補」に(48、51、54年)推され、高い評価を得ている。
 「ひさご川柳会」発足(23年)、異色の出現に「諷刺で島を変える」ほどの活躍が期待された。10名で始まったが、間もなく20名前後となり、盲人も数人参加して枕下にメモ帳を常備し、探り書きする熱心さだ。「ふぁうすと」同人の山本芳伸先生に、青松誌柳壇の選者で手ほどきを受け、椙元絞太、藤原葉香郎、森紫苑荘、中西三智子、由佐長剣の諸先生に投句や直接指導で教わった。中讃の飛田辛子氏は何度も足を運び、私費で、当園作品集「島の冬」を刊行してくれ、大いに励まされた。
 合同句集「ひさご」(30年)は会員初の出版で、故人を含む36人の集句だが、新聞やラジオに取りあげられ勇気と励みをおばえた。死亡や高齢化で会員は半減したが、現在も青松誌や灯台誌などに欠かさず投句して、健在を保っている。
 「灯台」(29年)創刊。盲人会機関誌活版刷りで出色、現在88号と活?に進行中。別掲重複で説明省略。
 「火星俳句会」(27年)設立。25年来園の「万緑」中村草田男主宰の実作指導等に刺激され、邱山会を出た6名で発足。設立趣旨を桂自然坊は、青松紘109号に概略次のように記している。(要約抜粋)

 「俳句は趣味で、花鳥諷詠といい、早取り写真式に写すもの」という邱山会の中にあって、対する5、6名は「今日的俳句では社会を、人生を、哲学をも詠みこむべきだ」と主張し、相剋、苦悶の末、挟を分かち……われわれが現代俳句の指標とする山口誓子に「対決する気構え」で、ぷっつかってゆく――との決意で火星会を創立、誓子主宰の「天狼」その系列の「炎昼」「閃光」等に所属、または投句しており、独自の自費出版で合同句集「火星人」(31、40年)2冊を刊行。個人句集「島の土」山田静考著も表わし、転進ぶりを問うている。この間、結社年度賞も、第1回「準閃光賞」(29年)自然坊。「炎昼賞」(29年)吉田美技子。「炎昼賞」(33年)蓮井三佐男と相次いだ。永い伝統の邱山俳句会が53年に解散してしまい、現役の俳句作者は、火星会の青木湖舟、三佐男、静考、自然坊の四人だけ(美枝子は短歌に移りコスモス同人で活躍)となり、島内では稀少価値となった。

 「俳句と短歌」(36年)、人間探求の指向で一致する火星会と歌人会の盟友誌で、異色の結合を注目され、外部からの寄稿参加もあった。「各自一頁あてを自由組みで駆使」する小さなゼイ沢と、試行泳が特徴だった。
 「青松歌人会」(21年)、藻汐短歌会の改称だが、新しい出発を意味する。独立自尊や自主性への希求で、公費援助を辞し、身を削る自己変革から「出直し」を図った。大方は外の専門誌で世人に互し独立の経験をもつが、全員の開眼には、葛藤や陣痛を伴った。しかし、逸早く殼をぬけ出た反応は作品に稔った。詩のH氏賞と同想の歌壇賞候補や結社賞に推される者が出始めた。
 「角川短歌賞入選」、第1回「花宴賞」(31年)斉木創。第3回「角川短歌賞」候補(32年)、第11回「砂金賞」(45年)朝滋夫。第5回「コスモス賞」(33年)小見山和夫。第10回「関西短歌文学新人賞」(42年)林みち子。第5回「牧水賞」(43年)政石蒙。「長流年度賞」(52年)赤沢正美――これらは、年1、2名を歌壇や結社が、見識や誇りをかけて選出するので情実や割引きはあるまい。病者も平等に「人格や品位を」認められての証左といえよう。だが、人間復帰後の独り歩きこそが、本物の摸索や試行錯誤の始まりであろう。
 歌集、歌文集の自費出版も、会員合同歌集2冊。個人歌集は54年末の「花までの距離」で、16冊にのぽる。自主独立後の着実な足跡でもあろう。著名歌人も十余名来訪したし、同好者の来島は何百人にもなろう。その人々や、外部専門誌上での接触・交換に於ては、われわれも「人間そのもの」で通じ合っている。その意味では、文芸による社会参加は、いち早く、心理的人間復帰に近づき得たともいえよう。
 機関誌「青松」 先に同人誌での起源にはふれたが、敗戦直後の記録性や建設的提言なども掲載し、療園ルネッサンスにもとの気概など、4年余の実蹟と貢献度を評価した患者自治会は、24年から活版印刷化を助成し、28年1月から「協和会機関誌」の形に切りかえ、月刊500部発行へと大きく発展した。渉外部事業下に組み入れ、編集作業員も正式に設けた。自治会機関誌の形は全国友園中で2、3に過ぎぬと思うが「本当のことを打ち出す」ためには、療園であるから患者側が主体性をもつことが当然適切である。施設長もその理解に立ち、快よく承認したことは賢明だったし、卒先寄稿して育成にも寄与した。そうして、園全体を象徴の顔となり、メッセンジャー的役割りの実蹟も積み、着実に歩み続けて、近く350号に達しようとしている。30数年間の膨大な内容中には、内外の波動や、園独自の変遷や哀観が、文章や短詩型などで如実に反映されている。
 記録上からも見逃がせぬ記述が少なからずある。本集の資料集めでも青松誌から探り出したものが少なくない。日誌にも残されていず、当事者に尋ね歩いても十人十色の答えで判別できなかった事が、青松の記事で確定づけられた。人間の記憶の不確かさを思い知らされ、その時点での書き置きが、いかに大切かをも感じた。しかも、記事によっては、隠れた背景や、細かなニェアンスまで、書き込まれており、真相を窺い知る上に大いに役立つ場合もある。こうした史実上の重要さからも青松誌は、在園の限り継続され、保管さるべきであろう。
 内容文にも本誌に集録したいものが、何十何百とある。例えば、戦後の特効薬プロミンが「菌を制圧する」過程を電顕写真を添え、病理学的見解と専門医の立場で仔細に追跡検討して、治癒を立証づけた解説レポートがある。当時、これを読んだなが年の読者から、「不治が可治に変ったことを、本当に知らされた。DDS誘基体の原理と併読し、真に納得づけられた」と高評ものだったが、写真うつりや長文過ぎる都合で採録できなかった。
 他にも、孤島辺境ゆえの不備欠陥の告発や改善への訴えも多く、特に3大ネックの「水・電気・船」に関する苦難は当園個有のもので見落とせない。中でも「水乞い」の切実な千顧記事は、いま読んでも胸痛むもの。無い物探しの島内水探しに、多年、多額の無駄使いに終始し、ために後進性山積で「老朽家屋は危険でないか」と題した、悲鳴ににた訴えなどもある。初期の行政改革案で「厚生省廃止」説が出ると、存置重要を力説の支持論が登上の一方で、予防法闘争で厚生省と対決する激文があり、相反する記事が前後しているなど顧て苦笑もの。予防法闘争の記事で外部寄稿の方が多いのも意外。意外ついでで「性に関する記事」が10篇を越えるのも、タブー視の頃で珍しい。勿論、興味本位でない病気との関連記で、医師や外部寄稿が大半。堅い誌面に紅を引いたような効果をもつ。このように、初期の数十冊の目次だけ覗いても、目ぽしい記事が多いが、本誌に採録はできない。いま一度、青松誌を読み直すことも案外、興味深いことを付記して置く。

 以上の各誌紹介には、私観や楽屋ぼめの偏きも多少ありそうなので、最後に、第三者の観察を添えて本項の結びとする。前者は朝日新聞三宅一志記者の一年近い、当園探訪記からの抜粋。後者は、園管理者側発行の、園五十年史の一節の概要である。

 ――入園者の文芸に封する姿勢は厳しい。自己追求の気構えで、お涙頂戴式の安易さなどとらない。自費出版もすでに70冊を越え、並みの同人誌など、遠く及ばぬ迫力ある作品ぞろい。一字一句が、絶望のどん底から這い上がってきた魂の苦闘に裏打ちされている。高齢化で劣えたとはいえ、まだ50人位いが、真剣に取り組んでいる。「心は健康だ」との意気地と、「生きたあかしを」残して置きたいという願いからである。
         (著書「差別者のぽくに捧げる」から)

――入園者の一部は、文芸を通じた人格形成により、療園全体の日常生活の向上をはかり、作品で、世人の偏見是正にも寄与した。単に、自己の病苦を詠ずるに止どまらず、社会機構の研究にも努め、常に、島内「文化活動の中心」となる重要な存在である。
          (青松園五十年史「文化活動」から)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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