閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

島の今昔       半 田 市太郎

 昭和の初期といえばらいに対する一般の知識もなく、天刑病不治の病と言われており、古い陋習と恐怖心にかられ、一旦らいにかかると社会からは白眼視され、周囲からは忌み嫌われ、世間態を恥じてかくれ住むという悲惨な状態であった。
 らいは遺伝であり不治と言う観念のもとに世を呪い、親兄弟をうらんで自殺を計った実例も少なくなかった。たまたま経済的に恵まれた者は、草津温泉とか紀州湯の峯温泉に出かけ、温泉及び点灸治療を行う者もあったが、これとても数うるに足らない者だった。どうしても家に居る事が出来なくなれば、故郷をあとに巡礼の旅に出て信仰によって病の癒やされんことを願い、全国から四国西国に集って来た。
 しかし、そうした信仰のかいもなく病が悪化してくると、自暴自棄となり、祭や縁日の路端に坐って物乞いをしたり、果ては他人の物に手をつけると言ったところまで落ち崩れてしまう者も少なくなかったのであった。衛生的見地からも野放しにしておくことも出来ず衛生係や警官によって強制収容を行なったのであった。こうした療養所は家庭からも肉親からもきりはなされて、淋しい者や前にものべたようなすさみ切った心のやるせない者の生活だけに、療養所とは名ばかりで賭事も行なわれ、トラブルや痴情関係などの流血沙汰を起す者もあって、今では想像もつかない当時だった。
 娯楽といっても春秋2回患者で行なう演劇や、年に1度行なわれる祭の相撲、または野球ぐらいで、映画といってもほんの数えるほどしかなかったし、それとても社会から有志の慰問であり、歌や踊りの慰問も時たまある程度だった。治療といっても大風子油の注射とカルシュームの注射を隔日に行ない外科交換も週に3回くらい行なっていたにすぎなかった。勿論、入室者や不自由者の看護等も病者の手によって行なわれていたし、注射交換等も軽症者が手伝っていた。食糧事情については全くお粗末で、朝は麦飯と味噌汁、昼夕食は大根の漬物に煮付けぐらいで、週に1回ずつ肉と魚というぐらいの給食だった。衣服は綿入れ、袷、じゅばん、ばっち、それも70才の年寄りも10才の少年も一定の縞柄であり、女は女として同じ衣服が年令の別なく支給されていた。
 こういった療養生活で故郷からの送金のある者は別として、それも数えるほどだが、大方の者は嗜好品を求める小使い銭にも困り、手足の不自由をおして園内作業に従事していた。従って全然作業の出来ない重症者には、作業賃の中より働く者が出し合って互助金として毎月配分していたのであった。一方職員は官僚的で患者に接するにも、中には人間扱いしない者もあり、支給品なども放り出して渡すと言ったまるで罪人扱いにされているような状態だった。例えば、肉親や友人が面会に来る時など病者同様の扱いを受け、途中で追い返す者などもあって、面会者の処遇についても一事が万事を察知することが出来ると思う。
 こうした療養生活の中にあって、不平や不満の声は随所に起り、その積み重なりが爆発したのであった。県の警察部長から寄付されたという、島にただ1台のラッパ付ラジオが、礼拝堂に置かれていたが、昭和6年1月15日の夜誰かの手によって西海岸に持ちだされ壊されたのが発端となって、たちまち患者総会が開かれ続いて決起大会となり、4名の顧問と10名の実行委員の選出を行なった。臨時青年団が結成され、作業は全部園に返還してしまった。ただし、病室入院者と不自由者の看護だけは、軽症者が責任を持って行なった。実行委員は昼夜の別なく風呂場や図書室に集っては対策を協議し、青年団は職員に対するスパイを防ぐための警戒に当っていた。
 この覚醒運動が機となリ「吾々病者は吾々の手で守らなければならない」との切なる声が起り、昭和6年3月8日に現在の患者自治会が生れた。自治会の業務は常務員によって、園内作業及び養豚養鶏の事業並びに、我々の便宜と必要を満たすために購買部が設けられ、所内秩序、患者の入退所の世話等に至るまでの療養生活全般にわたっての福祉向上の補助機関として執行の任に当ることになった。それにつづいて青年団、婦人会も奉仕団体として誕生し、尚またお互の親睦を密にし、療養生活向上発展のため盲人会も出来、年を追って、スポーツ、趣味、娯楽文芸等の団体も出来た。加えて昭和7年11月10日に今は亡き貞明皇后よりのお歌が下賜され、こうしたこともあって、徐々にではあるが待遇も改善され人権も認められるようになり、療養所としての形態を少しずつ整えるようになって来た。
 らいの撲滅が云々されたのもその頃であったと思う。発病者も比較的若い者が多く、入所する患者も増え、既設療養所はどこも満床で、入所を希望しても断わられると言った状態であった。そこで政府としてもらいに対する対策や、増床の必要に追られ、長島、栗生、星塚、束北地区と次々に国立による療養所が新設されていった。が日ならずして各療養所も満員となった。勿論、国立と府県立との格差は予算の規模においても、医療の面においても、その他の処遇などもおのずから違っていたことはいうまでもない。その当時野島園長などは卒先して府県立の療養所の不合理を説き、すべての療養所が国に移され国の管理のもとに運営すべきが当然であるべきを主張し、強く政府に働きかけていたらしかったが、日支事変から太平洋戦争へと国民総力を挙げて、軍艦マーチに明け暮れする時だっただけに、ハ氏病や療養所などは世の隅に追いやられほとんどかえりみられない有様だった。
 しかし強力な運動がみのり、昭和16年に至ってようやく府県立から国立へと移管される日が来たのであった。
 我々の喜びもさることながら、園長始めこの運動にたずさわった方々の喜びも想像にかたくなかったのであろう。国立に移管されたのを機会に全国の療養所が統一し名実共に新しい療養所とすべく園名を付けることになった。当大島でも職員患者より園名の懸賞募集が行なわれた。今は亡くなった村山氏と私の「青松園」という名称が入選し、賞金として金2円也をもらった時は本当にうれしかったが、それにも増して将来青松園と呼ばれる事を思えばその感激も一入のものがあった。
 戦争は日毎に熾烈さを加え男子という男子はことごとく応召されてゆき、職員もその例外ではなかった。野島園長と女医の二人(林先生夫妻が診療を手伝ってくれてはいたが)、園内の治療は勿論のこと衣食住に至るまでその窮乏は言語に尽きるものがあった。軽症者は来る日も来る日も防空壕掘りと食糧の一助にすべく、かぼちゃ、じゃがいもの農耕に全力を尽くした。重症な患者は治療も出来ず栄養失調になって「甘いゼンザイが食べたい。麦飯を腹一ぱい食べて死にたい」と叫びながら次から次へと死んでいった。1日に5つの柩を並べたこともあり、1年に90数名の者が戦争を恨みながら死んでいった悲惨を思うと深い悲しみと心からなる怒りが湧き上り、如何に戦争が罪悪であるかを今更のように憎しみとなってしのばれるのである。
 戦争は敗戦という大きな傷手を残して終戦となったが、労働の過重と治療の不足等も加わって遂に私も失明してしまった。
 こうした混迷の時代がしばらく続いていたが、24年頃にはようやく療養所も落ちつきをとりもどし、新薬プロミンの出現を見、病者は我も我もと先をきそって治療を求め活路を見出したのであった。施設整備も少しずつではあるが、従来雑居生活をしていた夫婦者も26年頃より夫婦寮も出来、自治会の会則改正なども行なわれ、療養所らしい生活が行なわれるようになった。28年にはらい予防法改正運動が起り、大多数の友園が相提携して人権獲得のため立ち上った。
 当時全国のハ氏病療養所の横のつながりを一そう密にし、施設長や厚生省に対しても我等の要求運動を起し、一方各患者の福祉向上とよりよき療養所の発展のために結合組織体として、全国ハ氏病患者協議会(略称全患協)が発足した。それより先、患者救済全として本省より1人200円程度の給付金があり、当時としては嗜好品などもうるおい、不自由者にとっては大変な喜びようだった。そうした運動の成果が現われ救済金が療養尉安金と変り、また不自由者慰安金も支給されるようになった。こえて35年には身体障害者福祉年金も給付され、不自由な者にとってはより豊かな療養生活が出来る喜びを昧わった。

              (青松昭和42年2月号より転載)
 

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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