閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

或る看護人の手記       喜田 正秋

 九月×日 曇天

 相変らず蒸し暑い。まるで土用の最中の様だ。昨夜はTとSに交々数回起され、仮眠の暇がなかったので頭が重い。
晴天ででもあれば少しは気も晴れるのだが―。
 眠い。無性に眠い。然し死魔と必死に闘っている2人は俺の苦痛など解るまい。
 同僚のK看護人は
 「俺が看ていてやるから寝ろ」
 と言ってくれるが、瞳の動きに依って物事を判じてやらねばならぬ2人を、物事に対して特にルーズなKに委せて寝る気にはどうしてもなれない。それに今日は2人共に郷里から親なり姉が面会にやって来るはずだ。
 今朝の体温は2人共全然水銀が上昇しない。脈搏も不規則だ。辛うじて強心剤の注射で魂の緒を繋ぎ止めているのに過ぎない。面会人はどうしたのか知らー。
 臨終の間に合えばいいがー。気懸りで耐まらない。
 10時過ぎ×先生が回診に来て下さる。何か言われた様だが言葉の通じる二人ではないのだ。
 先生にそっと容態を伺がってみる。
 「後二日は保つだろう。苦しむ様なら来なさい。注射を出してあげます」と言われたのでほっとする。
 Sの病名は肺結核、Tの方は悪性腸結核なのだ。昼食にSはミルク大匙二杯を摂ったが、Tは何も摂らない。12時10分、待佗びていたTの姉さんと伯父さんがやって来た。
 姉なる人の態度には好感が持てたが、伯父と名乗る人物には反感をさえ思えた。日頃の口吻ではTも伯父には悪感情を抱いていた様だ。現に今も姉の言葉には頷いた様であったが、伯父の言葉は全然通じない様だ。
 姉さんにTの容態を詳しく話して置いて、Sの方へ行く。Sのお父さんは何をしているのか知らー早く朱てくれればいいがー。
 夕食にSは重湯大匙四杯を摂る。欲目かは知らぬが何だかSの生命は取止められる様な気がする。だがTは時々水で口を湿す他は何物をも受けつけない。肉親には会ったのだし、今夜あたりが危険なのではあるまいか―。
 Tの枕頭には姉さんが付添っているのみで伯父なる人の姿は見えない。彼は最初病床を見舞ったまま、直ぐ面会人宿泊所へ引上げて病室へは顔を見せないのだ。今夜は徹宵で姉さんが看護すると言って呉れるから少しは眠れるだろう。九時最終の船が着く。Sの父は遂に来ない。電報でも打ってくれればいいのにー。
 9時40分、朝より4本目の(Sは2本)注射を打つ。今日はSもあまり無理を言わないので、後事をTの姉さんに依頼して寝ることにする。
 九月×日 雨
 雨天の日の病室は晴天の日に比較すると数等陰気だ。昨日よりは幾分凌ぎよいが矢張り蒸し暑い。昨夜は四回起されたのみだったので今日は幾分頭が軽くなった。
 昨夜半の電報では、
 「アスアサユク」とあったから、Sのお父さんも9時半頃には着くだろう。T其の後の容態は相変らずだが、Sは益々良好で朝食にはリンゴの汁1コ分を摂り、かすかではあるが、「ありがとう」と言った様だ。
 8時過ぎ、Tの姉さんが食事に出て行った後で、Tが又も苦痛を訴え出したので注射を出して頂こうと思い病室を出かけると、Kが後を追って来て彼女の独語を告げてくれたので赫っとした。彼女の言分に依れば、
 「何うせ死ぬ病人を注射で繋ぎ止めて、何時迄も苦しませなくたって、助からぬ者なら捨てて置いた方が苦しむ期間が短い」と言うのだ。
 結局彼女の言いたい言葉は、「早く死ね」と言う言葉なのだ。然し看護人として病人の苦しむ様を見て見ぬ態にして過ごすと言うことは情に於て忍びがたい。断じて俺には出来ないことだ。だが考え直してみると彼女の言分にも一応の理はある様だ。結局はTの側へ寄らぬのがいいのだろう。
 9時40分×先生診察に来て下さる。Tは今夜がむずかしいとのこと、Sの方は予想通り奇蹟的に病状を持直したと言われる。数10分後の船で面会に来る父なる人は、果して何と言うかしらー。気懸りなことである。10時20分Sの父面会に来られる。「生きていてくれましたか?」と挨拶もそこそこに枕頭に寄られる。
 「×夫、お父さんだ。分るかー。よう生きていてくれた」と覗き込む様にして言われる眼には白いものが光っている。声も無く下から凝っと見詰めるSの瞼にも涙が溢れていた。Sのお父さんの話に依ると此方から打った電報が着いたのは一昨日の夜であったので、「直ぐにも夜行で出発したかったのだが、家内が病気で床に就いているため捨て置く訳にもゆかず、留守を頼む人の都合もあって遅くなって済みませなんだ」といとも丁寧な挨拶で恐縮した。そんな事情なので、幸いSの病状もやや持直してもいるので後々の事をくれぐれも頼んで4時の船で帰宅された。船迄送ってゆく途中でも繰返し繰返しSの身の上を頼まれ「彼奴も可哀想な奴です。何一つ楽しかったと言う想出も無しに死んでゆきよるのです。私や婆さんにはそれが可哀想でならんのですわい。こんな病気になると分っていたら、年季奉公なんかさせずに楽をさせてやるのでした。もう後半年程で年季が明けるという時に病気が出たので、家のためにも成らねば、彼奴も楽しいという日は無かったのです。それと言うのが無慈悲な親方なんでして、それだけに尚可哀想なんです。彼奴が生きていてくれたからと言って、何の役にもたちはしませんが、例え一日でらよいから長生きをさせてやりたい、と言うのが親の願いです。生きられるものなら何とか一時間でも長く生かしてやって下さい」と拝まんばかりに言われたのには胸を打たれた。これが本当の親子の情だと俺は想う。朝から胸の中に鬱積していた暗雲が一時にけし飛んで仕舞い、「空は蒼空、我等は若い」と唄い出したい様な気持だ。
 船を見送って病室へ帰ると恰度Tが足掻き苦んでいる処だった。その中に足掻く元気も無くなったのか40分程でおとなしくなった。そっと後から覗いて見ると、Tは全身にビッショリ汗をかいてぐったりとなっていた。Sは父の顔を見たせいか、夕食は摂らなかったが6時頃リンゴの搾り汁2コ分を摂った。八時過彼女は疲れたからと言って面
会人宿泊所へ行って仕舞った。父に逢った安堵かSはよく眠っている。9時20分再度Tが苦しみ出した。潮が引き始める迄には未だ三時間はあるはずだが―。何うせ今日は徹夜だろう。
 九月×日 晴天
 昨日の雨でぐっと凌ぎよくなった。Tは到々午前0時40分幽籍の人となって30才の生涯を終った。昨夜11時30分頃容態が変だと思ったので直ぐ彼女を起しに行ったため、Tも何うやら死水だけは姉なり伯父に取って貰えた様だ。Tの死骸を夜伽室へ移して床に就いてからも、Sの寝顔を見詰めながら凝っと考えていると何か何だか解らなくなって来た。然し我々は何も好んでみずから病気になったのではない。言わば不可抗力に依るのだ。
 のみならずその身病むが故に社会より隔離されて、不自由な療養生活を送っているのだ。なる程我々が病気を患らったがために、血族一統の社会から受ける物質、精神的の打撃乃至はその被むる迷惑が如何に大きいかは我々によく解っている。
 さればこそ病む者も血族に及ぼす迷惑を自覚し、自我を殺して大部分の者が此の限られた小天地で、病苦と闘いながらその日その日を送っているのだ。肉親の者もいたずらに厄病神視せず、現実を直視して暖かい理解を持って貰いたいものだ。
 いずれにしてもSとTの場合いずれの肉親の態度が本当なのか俺には判断がつかない。だが案外と言うよりは大部分の者が、Tの場介と同じではないのかと思えて情無くなって来た。
 Sの容態は引続いて良好だ。彼のお父さんの気持に対しても、一度は全快させてやりたい。もっとも此の分なれば不用な心配は無用だと思うが―。

        (藻汐草昭和16年5月号より転載、筆者・故人)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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