閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第二章
 道はるかなり

 5 交 歓(昭和7、8年)

 昭和7年元旦を迎えた。例年通り米飯に加えて煮しめ、かずのこ、たつくりなど、おせち料理は年末に支給されている。さらに一升五合の正月餅である。一同ほくほくの新年であった。
  “酒もすき餅もすきなり今朝の春”(虚子)
 禁断の酒もこっそり何処からか一升瓶で入ってくる。なかには1ヵ月前から売店にこうじを注文して手に入れ、米を炊いて混ぜて濁酒(どぶろく)を仕込んでいる。神様だっておみきをあがると、飲めない者にまで無理にすすめてうれしがった。棺桶に片足かけた境遇にも、さがせばよろこびはあるものだ。
 初めて“かるた会”が聞かれた。男女紅白に分かれて戦った。馬子にも衣装で美しい女の晴着姿が見たく、かるたの分からぬ者まで見物に出かけた。天下は泰平である。
  “あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
     ながながし夜をひとりかも寝ん“
 詠上げる度に、分かるふりして女の横顔ばかり見ていた。
 この1月14、5日には高松で第一回全国療養所長会議があり、16日には全所長が来島して一同に挨拶があった。実はこの第一回所長会議に大島から患者の思想取締りが提議され、患者数名の氏名が上がっている。主として大島、外島、長島の三所長の間で応酬があり、患者自治会の可否にまでおよんでいる。しかしこれが分かるのは50年後の1979年、多磨全生園の病友が出版した多磨70年史、「倶会一処」の編集にあたり、蒐集した資料によってである。前年9月には柳条溝事件が起きて、満州事変の口火となっている。すでにこのとき思想の取締まりは、島住みの患者の上にまでおよんでいた。
 先年の懇談会で話題となった果樹園開拓が煮詰まり、常務委員一行は現地を調査した。現在の火葬場あたりで、通称足摺山の上である。島山の西の突端が約20米の断崖となり、下の岩礁を波が洗った。このあたりの海は病友の好漁場になっていた。断崖上の海を背にした松の下に、所内八十八ヵ所のうちの第三十八番札所、足摺山金剛福寺の仏様が安置された。真言宗御影堂前を起点の一番として、ここまで数えて三十八番、道は上にあがって一と回りして元にもどり、点々と祀られて八十八番におよんだ。
 島山の突端を太平洋を望む土佐の足摺岬になぞらえ、入り日の落ちる美しい海の彼方に西方浄土を思い描いた。人はここを足摺山とも足摺岬とも呼んだ。
  「心うくかなしくて泣く泣くあしずりをしたりけるより、あしずりみさきとはいうなり(問はず語り)」
 後深草院二条のこの一節は、あまりにも不治の患者の嘆きに似て哀れである。
 足摺山の谷は浅くて奥がなかったが、常に中央の低地は湿っていた。土質も良くなかった。下から拓いて左右に上がった。後に上限が相愛の道となる。開懇にて18日問かかり、2月20日には苗木を植えた。坪数約300坪、梨、桃、いちじく、びわ等である。
 3月8日は自治会創立一周年記念日、盛大に式を行ない、募集した自治会標語の人選句が発表された。
  “私も自治の義務がある”
 余興として福引きがあり、2日後青年団主催の弁論大会があった。団長大野は病気も軽く24歳、臨時青年団以来の団長で、毎月のように弁論大会を開いて団員の志気を鼓舞して気勢を上げた。自治会ニュース「報知大島」半紙大を創刊したのもかれである(3月15日)。かれが取材して書き、かれが原紙を切り、それを刷って毎月各室に配布した(9年軽快退所)。
 機関誌「藻汐草」も創刊された。7年4月号が一巻一号である。黄褐色の表紙で下方に「讃州庵治 モシホ社」とゴシックで入る。巻頭には内務省予防課長高野六郎氏の原稿を飾り、委員長の石本も祝辞をよせている。
  「吾島に於ても時代の趨勢(すうせい)に鑑み(かんがみ)、より明るき大島建設を標榜(標榜)して起ち、旧套(きゅうとう)を脱し面目を革むる(あらたむる)の挙に出で、さきには患者自治会並ニ相愛青年団の創立を見、今亦藻汐草の誕生を見るに至り、転(うたた)今昔の感を深うする者なり、(前後を略しかなを付した)」
 一部5銭で希望者にわけた。
 風薫る5月には官舎地帯の東部山麓の松林の中に保育所が建った。松林をぬけると海で、小豆島の見える景勝地である。2人の保母が就任し、病気の親と同居する病気でない子が引取られた。逃走してまで他園の保育所に子供を預けようとした親も子との別れを惜しみ、境界の有刺鉄線を中にはさんで泣いた。報知大島の記者はさっそく2人の保母にインタビューし、記事にして載せた。
 保育所の子を誰がつけたのか、未感染児童と呼んだ。発病するのを待つような心ない言葉である。それをまた心ない未感染大人が、平気で口にしものにも書いた。このときの保母の一人が後に大阪で活躍し、何回も表彰された大浜文子氏である。
 6月の職患懇談会では有毒無毒の境界である、有刺鉄線の撤廃を要求した。廃止するともしないとも返事はなく、にがい顔しただけでその後も存続した。患者側もいちじは勇気を出して要求したものの、永年の習慣で仕方ないと諦めたのだろう。
 野球部が長島愛生園へ遠征し、親善試合をすることになった。その激励弁論大会をキャプテン大野は自ら開催し、6月3日視察員を加えて25名、午前5時半大島丸で勇躍出発した。開闢(かいびゃく)以来の壮挙で、大勢の病友が見送った。愛生園では遠来の客として迎えられた。それまで閉鎖的であった療養所に、初めて一つの窓が開いた。その意味でこの遠征は画期的であった。
 愛生園では盛大な歓迎会が開かれ、その席上、光田園長は歓迎の言葉をのべ「赤いノミだけは連れて来ないように」といった。大島の蚤は有名であったが、同時に思想上のアカにかけてであった。家族主義を標ぼうする光田園長の目には大島や外島の自治会はにがにがしい赤の一派でしかない。試合には負けたが初めて新設の他園をみ、他園の病友と接し有形無形の多くの教訓を得た。一泊して歓談し、4日に帰島すると翌日は「長島訪問報告会」であった。キャプテンの大野は試合には負けたが、精神的には勝ったと胸を張った。
 7月に入ると外島保養院から野球選手と、視察団が来島する。先には大島から長島に、いままた外島の病友を迎える。二つ目の窓が間いた。交流は親善に役立つばかりでなく、急に大きく眼前の展けた感じであった。
 ところが残念ながら大島の野球場は内野をコンクリート道路が横切り、外野には大きな松が幾本もたつ。とても恥ずかしくて野球場とはいえない。道路は仕方ないとしても、最少限度2本の松がじゃまになる。そこで松をいのちの次にだいじがる所長に、正副委員長と正副青年団長連署の誓約書をかき伐らせてもらった。

   誓約書
 今回野球場拡張ニツキ吾等ノ懇請ヲ容レ大ナル理解ト英断トノ下二松樹二本伐採スルコトヲ許可成被下候段奉深 謝候。依ツテ吾等ハ所長殿ノ意卜存ズル処ヲ体シ今後左ノ条々相守ルベキコトヲ誓約申候也。
 一、将来野球場拡張ニツキ松樹伐採ヲ願出ザルコト。
 二、植物愛護ヲ念トシ特に松苗等ヲ補植ナスコト。

 そして植えたのが現防波堤が築かれる前の防波堤内側に、東海岸北から南へかけての一連の松である。そのころ自治会々則の一部が改正され、正副委員長を正副総代と呼ぶに至った。
 7月19日、外島保養院一行職員10名、視察員、野球選手合わせて25名船で来島した。初めて友園からの来客である。盛んな歓迎会を催し、婦人たちにも応援をたのんでもてなした。試合は13対12の惜敗におわった。一行は一泊して懇談会をもち、翌朝発って帰航の途についた。
 秋天の下、青年団主催の第一回運動会が聞かれた。初めてのことで病友は元より、職員やその家族が見物に来、一日たのしく喚声を上げた。盲人の「杖の友会」が発会式を上げた(10月17日)。会員63名、全患者比14%であった。さる5月の盲人慰安会席上、たまたま杖の友会設立の話が出、それはよいと列席者みな賛成し、盲人の間で会則が起草されていた。不自由な者の会なので青年団が後援し、慰問等には晴眼者の足の不自由な者も合わせて、担架車やあるいは背負って会堂へ連れて行った。(以後これは青年団の一つの任務となる)
 無宗教者の団体として「キラク会」の設立が届出られた。信ずるも自由、信じないも自由、キラク会は宗教を否定してキラクにやろうという意味であった。会員10名。外部の社会とちがい入所と同時に宗教をきかれ、以後その宗団の会員となって最後は葬られる。お詣りしない無信心者の存在は許されても、宗教的関心の高い所内で、正式に無宗教団体の届出は批難の的となった。
 早速、報知大島の大野はキラク会の主旨や目的を記事にして刷った。それが常務委員会で問題になり「こういう団体の存在が外部に知れては同情を失う」と記事の削除を決定した。ためにいったん記事をみて許可した学芸部長(前の娯楽部長)が責を負って辞任した。
 キラク会の主謀者とみられる土谷勉、村上義の2人は1月の高松における第一回療養所長会議で、すでに思想取締りのリストにのっている。12月10日の夕方制服私服の警官2人が所員に案内されて土谷、村上の居室を訪ね、追放の旨を告げそのまま護送して大島丸に乗せた。このとき岡山の中国新聞の文芸欄にしばしば虚無的な随筆を書いていた梅野義夫もいったん追放と決定していたが、かれは許されて残った。大島丸は2人を乗せて闇の海上を走りつづけ、十時半下船を命ぜられた。岡山県児島郡宇野町玉、現玉野市玉であった。

 明けて昭和8年1月10日、皇太后陛下のお歌の伝達式があり、つづいて所員、患者の記念講演会が行なわれた。昨年11月10日の大宮御所で「らい患者を慰めて」の兼題でお歌会があり
 陛下は
  つれつれの友となりても慰めよ
    行くことかたきわれにかはりて
 とお詠みになった。新聞ラジオは早速報じ、先の御下賜金につづいてである。改革運動からはや2年たっている。改革運動があったからでなく、あのころを境に内外とも大きく変わり、いまなお変わりつつある。たしかに改革運動は大島療養所の転期であったが、むしろ時代の転期に改革運動が起きたとみてよい。もし改革運動前であったら、他所の病友と会ったとしても恥ずかしくて話せる状態ではなかった。3療養所間の交流もいわばそれぞれが、いちおう自分の療養所の現状に自信がもてての実現である。
 新春を期し共楽団主催の芝居がはなばなしく挙行された。共楽団の歴史は古く毎年の歌舞伎芝居は、病友の数少ない娯楽の一つであった。全国の療養所が草創期以後共通して歌舞伎をやったのは、単に適当な娯楽が他に求められなかったからであろうか。特に女たちは芝居といえばお祭り騒ぎした。食べ物を用意し、なかには重箱に詰めて観覧席に持ちこみ、知人友人に振るまった。それが今春、歌舞伎は「曽我物語中村之段」だけとし、他に喜劇「車夫の診察」に加え、菊池寛の「父帰る」と「責任観念」(作者不明)の上演で前景気をあふった。初めて現代劇に手を染めたのも、時代の推移といえたろう。
 女の独身室を新たに設けたのも一つの推移であり、進歩であった(1月20日)。実は以前、籍の入った正式の夫婦のために、一棟の夫婦舎があった。それが年と共に内縁関係を結ぶ男女がふえ、通婚制となって黙認の形で定着した。晩になると男が女の部屋に泊りに行き、朝になって自室へかえる。男室は夫婦者が泊りに行くため、夜は寝る者がへるが、逆に女室は男を迎えて10人が15人にも17人にもふくれ上がる。未婚の女はその間にはさまれ、小さくなって寝た。場合によっては病気を悲観し、死ぬ思いで入所した若い娘が夫婦者の寝床にはさまれて雑魚寝(ざこね)するのだから、ショックであったに違いない。未婚の娘ならずとも独身の女は床に入るなり、頭から布団をかぶって身じろぎせず寝るしかなかった。これは内外から批難されていた。そんなわけで新しく独身の女のために独身室ができ、人事部から男の遊びに行くのが禁止された。もしも独身室にいて好きな男ができて結婚するときは、人事部へ申出て転室した。禁止されるとかえって行きたいのが人情である。ひでえことをしやがると、男たちがくやしがった。
 これも前々から話題になっていた島の北山を鉢巻き状に一周する散歩道を、青年団が創立二周年記念事業として奉仕で造ることになった。幹部が団員を順繰りに出したが、自発的に連日出る熱心な者が大勢いて、工事は予想以上にはかどった。測量などするわけでなく、あっちだ、こっちだと歩いて見当をつけ、山の斜面を切り崩して敷土とした。道巾1米半、豚舎の上で東西に分かれ、どちらを回わってもそこに返った。島の西側と東側は断崖で、直下に波が砕けた。そこも何とか工夫して拓いた。2月4日に着手して3月1日竣工した。生半可な測量するよりうまいやと、素人たちは自賛した。
 全長1㌔半、樹間を透かして東西南北瀬戸の風景をたのしみながら一周できた。裏山中間の樹下にうずくまる岩には、墨痕あざやかに「弁慶腰掛けの岩」と書き、木の香も匂う立札を立てた。牛の背(島の北端)に出る道に倒れかかる赤松には「昼寝の松」と書いて立てた。講釈師は見てきたようなウソをいったが、大島相愛青年団は見てなくても真実を書いた。
 豚舎上の東西分岐点を選び、赤松を削って「相愛之道」と大書し、碑代わりに立てた。何年か後にそれが朽ち、左官の田中京人氏の作ったのが現在のコンクリート製である。ある沖睦まじい夫婦は毎朝手をとり合って相愛の道を散歩し、しばし二人だけの世界をたのしんだ。またある若い男は恋の歌をうたって一周した。またある者は西の海を染める夕日に故郷をしのび、またある者は思索にふけりながら独りで回わった。碑は黙して何も語らない。
 これに先立ち婦人会が創立され、玉藻婦人会と命名(2月14日)。青年団が相愛の道を拓くにあたり、婦人会は弁当を運びお茶を沸かし、裏方として協力を惜しまなかった。以後婦人会は青年団と共に奉仕団体の両輪となって運動会、盆踊り、餅つき、杖の友会後援と活躍する。
 小林所長は一時病臥されたが快くなって出勤され、快気祝いの餅を配られた。自ら提案して毎月懇談会を開き、職員と患者の意志の疎通をはかった。それがまたいつからとなくふたたび病臥されていた。総代は病友一同の名でお見舞状を出したが、何分詳しいことが分からず、むしろ大したことはないのだろうと思っていた。それが突然、2月18日亡くなった。狭心症との話であった。22日に会館で御遺族が列席され、仏式による告別式となった。
 2年前、やむを得なかったとはいえ、長島へ送れの、所長更迭だのと要求したのが思い出され、一同告別式にのぞみ心中ひそかに詫びた。御遺族から500円いただき協議の結果、石碑を建てて亡き所長を記念すると共に、一同に50銭ずつ分配した。残金で鶏舎を一棟建て、なお映画を雇って上映した。石碑の場所は一度変わったが、現在の南無仏(納骨堂以前のお骨を納めた)横に立っている。

 後任所長として野島医長が就任した。37歳の若さである。広島県東部の神辺町に生れ、阪大医学部出身である。大正12年(1923)から2年間、外島保養院に勤務し、患者自治会を知っている。そんな関係で2年前の改革運動には、患者の立場をもっともよく理解した一人であった。そのうえ人柄が柔軟で「みなさんの良いのが一番よい」と何事にも患者の意志を尊重された。小林所長の死によって一つの時代が終わった。これからは若い野島所長をいただき、世代の交替によせる期待は大きかった。

 四月一日の開所記念日は、午後から職員と患者チーム初の野球試合となった。盛んに双方応援し接戦の結果、九対十二で患者チームの勝となった。二本の松を伐って以来、何とか野球場らしくなったのも幸いして患者チームも練習を積んで強くなり、県下の野球チームが続々慰問試合に来島した。所長や職員チームの熱心なはたらきかけや応対という、かげの努力もあった。これは地域住民との融和とか理解という点で、大きな効果があった。
 愛生園から視察員と野球チーム合わせて24名、愛生丸で来島した(4月7日)。青年団は山のさかきの小枝でアーチを作って歓迎した。試合は8対7で大島軍が惜敗した。職員チームとの試合といい、友園との交歓試合や視察員の交流といい、すべて2、3年前までは想像できなかった。こうして閉ざされた療養所に、だんだんと明かるい日が射すに至った。
 豆腐製造器具一揃い15円で購入し、豆腐の製造を始めた(5月1日)。つづいて製麺機(せいめんき)を120円で購入した。何れも製品を買上げて炊事場で使ってもらうほか、所内販売した。かけうどん一杯5銭、玉が大きく安いので人気を博した。
 かねてらい予防協会の厚意で、欲しい物があれば2点つけ出すよういわれていた。常務委員会は評議員会と協議の結果、印刷機械(活字をふくむ)と、吹奏楽器をお願いしてあった。2つともききとどけられ、まず金管楽器がきた。トランベット、トロンボーン、コルネット、チューバ、ドラム、バスドラム、シンバルである。音楽キチは大よろこびで早速練習して「葵(あおい)音楽団」を設立した。(5月19日)以後送迎や、式のとき、あるいは運動会、後には戦局の進展にともなって職員が次つぎに応召すると、支給された制服で軍歌を奏して送った。
 先には外島の病友を迎えたが、こんどは大島から視察員と野球選手26名、外島保養院を訪問することとなり、5月22日大島丸で発ち、二泊して無事帰島した。相変わらず試合には負けたが、視察員も野球選手も愛生園訪問に劣らず教えられるところが多かった。
 病室の病人は開所以来一般と変わらぬ半麦飯であった。それが1人1日3合の米飯に改善され、大変病人によろこばれた(6月5日)するとそれを祝福するかのように、先年開墾した足摺山の上の果樹園から初なりの桃を収穫した。できたくだものは病人の栄養のたしにというのが主旨であった。早速、病室の60名に一個あて配給した。たった一つの桃であったが初なりが病人に食べてもらえ、果樹園の耕作者にとっては苦労した甲斐のあるよろこびであった。
 病室の食事の改善につづき、それまで昼食と夕食は一緒に煮炊きされて一度に渡されたのが別だきとなり、そして沢庵だけが菜であった夕食に菜がつくに至る(9月4日)。
 女の独身室同様、問題になっていた少年少女室が開かれた(7月5日)。先に病気でない子は官舎地帯の保育所に引取られたが、病気の子はいぜんとして親と同居し、大人たちといっしょであった。これは教育上、風紀上、良いことではなかった。それをこんどはお父さん代わりお母さん代わりがついて世話をする。親も安心したが子供がよろこんだ。幼い身で神経痛に泣く子もいたが、みなよく食べよく遊びよく学び、スクスクと成長した。
 青年団が健康室居住の男子30歳までの義務制に団則を改正し、九月期から実施に踏切った。創立以来2年半、年齢に制限しない普通室男子の任意制であったため、団員は10代から40代におよんだ。その年齢の差が話題、関心、趣味、嗜好などあらゆる面で違和感を生んだ。これが改正の原因であった。
 亡くなった小林所長の提案による懇談会は、そのごの野島所長に引継がれて毎月聞かれた。9月1日の懇談会席上、所長は「外島事件」について説明した。これはすでに新聞で大きく報道され、一同意外な事件に驚いていた。視察員や野球選手が行き来して交歓をかさね、文通もしていたのでもしやあの人がという不安を幾人か抱いた。
 7年の第一回療養所長会議で患者の思想取締まりが議題になり、その年の12月には大島から2名追放になった。そこへこんどの事件である。五月会という無宗教団体ができ、それが各宗数団体で組織される宗教連盟と鋭く対立した。そしてどちらが自治会の執行部と評議員会の主導権をにぎるかで、対立は頂点に達した。ついに宗教連盟側は村田院長に対しかれらを追放するか、さもなければ自分らが保養院を出て行くと、二者択一を迫った。さらにこのとき職員が府警の思想取締まりに以前からマークされていて、検挙される一件があって様相をいっそう複雑にした。
 院長は苦慮したあげく院の平和を保つため五月会員であると共に執行部、評議員会の主要メンバー18名に事情を説明し、自発的退院を勧告した。18名はその勧告をいれ自ら出て行った。これで院内的には解決したかに見えた。
 ところが時の大阪府警察部長からクレームがついた。伝染病患者を一挙に18名、野放しにするとは何事ぞと。村田院長はらい患者が全部療養所に収容されているならとにかく、いまの状態では18名出しても、新しく18名入れれば同じことだと応酬した。そして双方感情的になってこじれ、村田院長の辞職によって解決した。
 以上が野島所長の説明であった。
 らい者解放同盟はこの年の正月、ひそかに地下組織として設立されていた。綱領にらい者の人権擁護と療養生活の改善をうたい、当面の目標として光田イズム打倒を目差した。本部書記局を外島におき、オルグを各療養所に派遣し、ようやく活動を開始していた。たまたま退所した18名中に本部書記局の主要メンバー数名がいたため、組織の機能を失い事実上の潰滅に追い込まれた。これは当時一般に知られてなかった。この年の秋、共楽団の上演脚本「線路工夫の死」(作者不明)が上演不許可になったことからみても、当局がかなり神経質になっていたのがうかがえる。
 各種会合の合図に汽車のレールを叩いたのは前に書いたが、9月から一般的な式や慰問などの場合は、当局が10分前に機関場のサイレンを鳴らすことになり、合わせて永年呼び慣れた給品所という名前が事務分室と変更された。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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