発刊のことば
大島青松園盲人会
会長 北島 澄夫
昭和7年5月27日、ハンセン病療養所の最底辺にあった盲人が、自らのしあわせと明日への希望を求めて立ち上り、自治会の援助と青年団、婦人会の後援のもとに、「杖の友会」(盲人会)を結成いたしました。以来、ときには消費団体と悪罵され、解散の危機にも頻しながら、営々として受け継がれ、ここに50周年を迎えるに至ったのであります。
私たちはこれを機に、機関誌「灯台」に掲載されてきた主張、随筆、生活記録等を一本にまとめ、盲人会五十年史「わたしはここに生きた」として発刊することになりました。
「杖の友会」が結成された当時の療養所はきびしい隔離政策のもとにあって、入所者の権利や人格は無視され、むろん自由はなく、医療や生活も辛うじて生命をつなぐだけのまことに悲惨なものでありました。このような状況のなかで、二重、三重の障害をかかえた盲人が組織を作り、それを維持するということは無謀に近い難事業で、会合を開くにしても盲人会館があるわけでなく、青年団の詰所や寮の空室、夜伽室等を転々としなければなりませんでした。また総会を開くにしても、春秋2回の不自由者寮大掃除の日を利用して会堂に集まり、文芸発表や座談会などを行ない、互いの慰安と親睦を深めていました。
現在の恵まれた環境に較べると、当時の会活動は苦難に満ちたものでしたが、会員の結束はかたく、定期的に短文芸や台詞劇を行なっているほか、生活に関するアンケート調査等も実施しています。14年の大島神社建立に際しては、勤労奉仕にかえて会員から1銭ずつを集め、会の維持費よりなにがしかを加えて献金し、境内に榊2本も奉納しております。会創立10周年には、記念樹として桐の苗木25本を園内の各所に植樹しましたが、道路の拡張や寮舎の増改築でいつとはなく伐り倒され、今では一本も残っておりません。
その頃から大東亜戦争は日増しに苛烈を加え、療養所の食糧事情が極度に逼迫し、医薬品等も窮乏をきたすようになりました。自治会ではこの時局に対応し、警防団、青年団、婦人会による連合奉仕団を結成、防空壕掘りや避難訓練に懸命でした。こうした非常時下の19年、「杖の友会」が自治会の指定団体から各種団体に移され、受けていた援助の大半が打ち切られることになりました。その驚きは大きく、ただちに復活に立ち上ったのですが、どうすることもできず、ますます深刻化する時の情勢と共に、「杖の友会」は解散の一歩手前まで追いこまれたのでした。しかし組織の灯を消してはならないという願いから、臨時便法によって正副会長だけで会を守ることになりました。やがて終戦となり、自治会の規約改正に伴ない、「杖の友会」も公認団体として認められることになりました。そして23年には臨時便法をとき、役員改選が行なわれ、新しい陣容をもって再起することができたのであります。
思えば、会創立からの20年間は、少しでも明るい療養生活をめざし、光りを求め、あたため合ってきた時代であり28年からの10年間は、閉ざされた世界から目を外に向けて、歩きはじめた脱皮の時期であった、と言えましょう。その要因となったのは、新薬プロミンによって病状が鎮静し、社会復帰の希望がもてるようになったこと。28年のらい予防法改正闘争によって、これまでかえりみられなかった入所者の人権が回復したこと、会の後援団体として援助いただいた青年団、婦人会が解散したため、杖の友会世話係2名が園内作業制度によって配属されたこと。ハンセン病盲人には不可能といわれた点字を、血のにじむような努力と忍耐によって習得したことなどがあげられます。特に病状の回復と点字習得は内にこもりがちであった過去を払拭して、積極的な活動を促し、29年には機関誌「灯台」の発刊をみるに至ったのであります。最初は園内の晴眼者に盲人の声を聞いてもらうために、パンフレットのようなものでもと創刊されたガリ版刷り「灯台」も、18号からは活版印刷となり、号も92号を重ねて社会に対する啓蒙の役割を果たしています。
30年5月1日、全国11園の盲人会が結集して、全国ハンセン病盲人連合協議会(全盲連)を結成、邑久盲人会に本部を置いて発足しましたが、このことは各盲人会に飛躍的な発展をもたらす基礎となり、歴史的快挙ともなったのです。全盲連の結成によって視野は大きく開かれ、31年には香川県視覚障害者協会に準支部として加入し、一般盲人と交流をもつことになりました。つづいて33年には長島盲人会の主催により、初めて瀬戸内三園盲人協議会が開催され、障害福祉年金の獲得、盲人会館の建設、盲人教養文化費及び盲導施設整備費の予算化など、当面する諸問題が討議されました。全盲連の運動がきっかけとなって、34年から療養所にいる者にも障害福祉年金が支給されるようになりました。しかし同じ盲人でありながら外国人には適用されなかったため、それに代る特別措置を要求してねばり強い運動をつづけ、現在その実現をみています。
また、30年頃より自治会に要請して、縫工所の一室を事務室に借り受け、会活動を行なっていましたが、点字、読書、川柳、音楽、民謡等のグループがつぎつぎに誕生し、もはや縫工所の一室だけでは会員の要望を満たすことができなくなりました。こうしたことから専用の盲人会館を望む声が次第に強くなり、灯台誌上にもその必要性を訴える記事が多くみられるようになってきました。幸い34年に日本MTL(JLM)をはじめ、多くの方々のご援助によって待望の盲人会館が与えられ、これにより会活動が一層盛り上り充実してきたのであります。
開園以来相愛互助の精神のもとに、不自由者の看護は軽症者が当るという形態がとられてきましたが、新薬による病状の回復、経済状態の好転、社会通念の変化等によって、看護作業に付くことを忌避する傾向が現われ、看護内容は低下し、不自由者へのしわ寄せが更に深まってきました。その打開策として不自由者看護を職員に移行させる声が高まり、全患協運動へと発展していったのです。盲人会でも対策委員会を設け、居住様式、業務内容等の検討を行なう一方、園当局及び自治会に対し、看護切替の早期実現を強く要請していたところ、37年に独身特別重不自由者寮2棟、夫婦重不自由者寮1棟が暫定的に職員看護に切替えられたのであります。このことは入所者の意識を変え、療養所の在り方を変えた大きな変革であり、感慨ぶかいものを覚えます。
この看護切替を契機として更に運動を広げ、39年に点字図書室の増設、42年に教文費、盲導索費の予算化、45年に拠出制障害年金への移行が、56年には盲人福祉会館の再建等々、多くの問題が花ひらき実を結んだのであります。こうした運動の成果によって私たちの生活が向上し、安定した蔭には、血のにじむような苦闘と人間復帰への長い道程があったことを忘れることはできません。
本書は、盲人会結成以来半世紀にわたる歴史をふまえ、孤独と絶望の闇の淵から光りを求めてはい上り、どのようにして生き続けてきたか、ハンセン病盲人の血と涙の記録を広く世の人々に知っていただくために発刊するものであります。なお、貧弱な医療と生活処遇のもとで、悲惨な生涯を閉じた盲友255名の霊前に捧げる、鎮魂の書でもあります。すでに入所者の平均年齢は61歳に達し、盲人のそれは67・5歳と更に高くなっております。できれば、一日も早く偏見や差別ののぞかれた、本当に明るい平安な療養所で、生き抜いてきたことの幸せをかみしめたいものと思います。
終りに、本書出版のためご尽力いただいた岡田誠太郎園長、患者自治会、讃文社の永田敏之氏、政石蒙氏、編纂委員の各位に衷心より感謝を申し上げ、発刊の辞といたします。
|