わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第1章 産 声(昭和6~25年)            赤 沢 正 美

 1 産 声

 曙 光

 戦争は終ったが飢餓とのたたかいはますます深刻になってゆき、わずかなうどん粉や干うどんが代用食として出る日が多くなった。暖房以外に木炭の配給はなく、少ない薪や浜から拾って来る木の切れで焚くのであるが、目の見える者はともかく、煮炊きのできない盲人は友人や寮の晴眼者に炊いてもらわなければならず、盲人にとって代用食は苦痛のたねであった。園内の農園で作られた野菜は、大炊事場の副食として使い残りを統制販売されたが、個人の手に入る物は少なく、うどんやだんご汁を炊くにも野菜はほとんどなかったが、元気な人たちは甘藷の茎や葉をもらって来て、茄でたり汁の実にして食べていた。そんな時、篤志家より会に寄附金があり、協和会にお願いして会員1人当り甘藷200匁の慰安配給を受けることができた。一般社会では食糧の買い出しや、やみ市の話も伝えられていたが、患者は買い出しに行けるわけもなく、欠乏は食糧に加えて医薬品、包帯、ガーゼも同じであった。
 21年4月には、前期会長の推薦によって会長・藤田粂市、副会長・道上勘七が会を預かることになった。
 応召していた医師のなかで、いち早く復員してきた青山先生の指導によって、全寮舎にDDT撒布が行なわれ、これ迄苦しめられてきた蚤や南京虫ばかりでなく蚊までが一掃され、その効力に驚きながら安心して眠れるようになったことを喜び合った。
 大炊事からは肉や魚が出なかったので、連合奉仕団は周囲の豊富な魚類に目をつけ、協和合に漁獲を申し入れ、とった魚は全員に分けるということで話は決った。そして奉仕団は鎧島、甲島などへ出かけ、箱眼鏡を覗きながら魚をすくってきた。最初は病棟入宦者49名と看護人に1人当り30匁ずつ配給し、次からは寮順を追って配り、一巡して漁獲奉仕は終った。これがきっかけとなり、自治会では園に地引き網の購入を要請して中古の網を手に入れることができた。それで経験者4名を先頭に網を曳き、とれた鯵、鰯、?(このしろ)などは統制販売され、これによっていくらか蛋白源を補うことができた。
 また連合奉仕団は結成5周年を記念して、演芸大会を会堂において催した。新しく発足した「シルバースター」の演奏に合わせて女性歌手も多くうたい賑やかな夕べであったが、会では日頃お世話になっている感謝をこめて花代5円を贈り、共に楽しいひとときを過ごしたのである。
 22年には、会長・道上勘七、副会長・辻良市が推薦された。昨年につづいて同じ篤志家より10円の寄附金を頂き、それによって会員51名に1人200匁の馬鈴薯を配給することになったが、不足分は自治会が負担してくれた。
 病身をおして診療に当るかたわら不自由な者を励まし、文芸奨励にも力を注いでこられた林文雄先生が7月18日逝去された。先生の遺言によってご遺体は入園者の火葬場で荼毘にふされることになり、その葬列を多くの病友と共に別れを惜しみながらお見送りした。
 23年の正月三ヵ日は、戦後はじめて米飯の給食が出され、平和の実感をかみしめた。そして4月からは、3年間にわたり正副会長のみでかろうじて会を保ってきた臨時便法をとき、通常の状態に戻すための役員選挙を行なうことになった。選挙の結果、会長・藤田粂市、副会長・辻良市、外幹事7名が選ばれたが、幹事の殆どは新しい顔ぶれで、3年間の激しい移り変りが今さらの如く偲ばれる。13日には新役員と後援団体の会合を開き、今年度の行事として文芸募集や放送劇を復活して行なうことに決定した。
 これ迄、家から送金のない者はわずかな互助金だけで日用品や嗜好品をまかなってきたが、1ヵ月百50円の療養慰安全が全員に支給されることになり、貧しさの助けになった。
 また高松宮殿下が厚生省関係者と共に5月27日来園され、園の幹部職員が案内する中央通りだけでなく、気軽く裏通りも見て廻られた。そして宮様は寮舎の窓から入園者に親しくお声をかけられ、記念としてオリーブをお手植になられた。
 6月23日、三重苦を克服し障害者の光ともなったヘレン・ケラー女史が来日され、各地を講演して廻られた。会ではヘレン・ケラー女史の功績をたたえてメッセージを贈ることにした。
 今期計画していた放送劇、額田六福作「秋晴れ」を、11月3日自治会の放送室より全寮に流した。この練習には半年余りかけて、あき部屋や不自由寮を借りて熱心に行なったが、晴眼者からの反響もあり、ひとつの黎明をもたらしたのである。
 またこの月には、厚生省から新薬プロミンの試薬について指示があり、その治療を受けることになった。新薬にはこれまで何度も苦い経験をなめてきており、19年のセファランチンや虹波を服用して病状を悪化させた者が多く、大方の者は薬の効果をみてからでも遅くはないと落着いていた。しかし、治療を開始して間もなく喉の炎症がとれ、呼吸が楽になったとか、鼻がつまらなくなったという者が出はじめた。なかには結節が化膿し、またかと落胆する者もあったが、その傷はすぐ癒えて、疑心暗鬼であった者もこの効き目に、自分も治療を受けたいと希望する者が相次いで出てきた。そこで医局は、年末の慌しい時、35名の第二次募集を行なったが70名を越える希望者が治療棟の受付に押しかけた。誰もが戦中戦後の飢えと欠乏によって病状を悪化させ、失明寸前という者もいてみんなは必死であった。
 24年1月11日、自治会では全員にプロミン治療を求める要望書と署名簿を園長に提出した。これに対し園長は、6000万円のプロミン購入費が計上されているので全員の治療も可能との回答であった。ところが、2月27日多磨全生園から、プロミン予算が大蔵省で1000万円に削減されたので運動に起ち上って欲しい旨の電報が届き、つづいて予算復活を求め、多磨、栗生ではハンストに入ったとの連絡を受けた。自治会ではこの対応について検討した結果、多磨、栗生に激励電を打つ一方、大蔵省、厚生省に対しプロミン予算復活の要請電を打った。こうして各友園がプロミン獲得運動に立ちあがり、全額に近い復活を勝ちとったのである。プロミン予算獲得の朗報のなかで盲人たちは、国土浄化の名のもとに強制収容され、園内作業に従事させられて失明にいたったことを思い、もし戦争がなかったら軽症なうちにプロミンの恩恵を受けられたのに………と悔しがった。ちなみに、アメリカのカービル療養所においてこのプロミンを使用し、その効果があらわれていた16年から20年までの間、青松園に強制収容された者496名、死亡した者342名を数えている。プロミンの出現によってこれまで不治とされてきたハンセン病が治癒する病気となり、二重、三重の差別と偏見から解放される端緒になったのである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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