わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第2章 脱 皮(昭和26〜34年)

 2 脱皮への胎動
            今 井 種 夫

 神風はついに吹くこともなく大東亜戦争は敗戦に終った。その虚脱感は後遺症となって、日常生活の上になお色濃く残っていたが、昭和23年、アメリカより輸入された新薬プロミンの効果は著しく、我々の身辺に希望の兆しが見えはじめてきた。
 26年、杖の友会では役員の年度交替がスムーズに行なわれ、会長・半田市太郎、副会長・山口歌次、幹事6名によって会の運営がなされた。行事としては、4月10日に自治会及び後援団体関係者を迎え、初顔合わせを兼ねての懇談会を行ない、今後のことについていろいろお願いをした。5月20日には会創立19周年の記念集会を開き、婦人会の司会によって「二十の扉」で楽しみ、そのあと、募集していた短文芸の入選発表が行なわれた。その他格別な行事が出来なかったのは、後援団体の都合によるものであった。この年には5名の入会者があり、新しい息吹きも感じられる。
 また園内に急病人を運ぶ臨時担架車が初めてゴム車輪となり、不自由な者にとってはひとつの救いとなった。
 我々ハンセン病者の上にあたたかいお心を寄せられていた貞明皇后様が、5月17日に逝去され、一同は深い悲しみにつつまれ、全員会堂に集まり哀悼をささげた。
 光明園で開催された瀬戸内三園懇談会において、「全患協」加入問題が話し合われ、6月20日、大島自治会も正式に加入したことは、我々の意識を高める画期的な出来事であった。
 8月には、独立した夫婦寮が新設され、第一次移動が行なわれた。これによって、開所以来、独身も夫婦も同じ部屋で起居するという状態から解放されることになった。
 27年度は、会長・田中京祐、副会長・藤田粂市、幹事6名であった。この年は会創立20周年に当るところから、自治会より特別に1500円の助成金を受けている。この記念集会は、後援団体の事情で7月30日会堂において挙行し、自治会の三木総代、藤岡青年団長の祝辞があったのち茶話会にうつり、祝賀行事として福引大会、文芸募集(冠句「いそいそと、ものはづけ「けむたいものは」)を行なっている。
 誰しも古里を遠くはなれて恋うものは肉親であり、相愛の道を踏みしめながらも古里への思いは切実である。こうした我々の心情をおもんばかってか、6月16日、厚生省医務局長通達により、我々の「一時帰郷」が正式に認められた。
 6月25日には、貞明皇后様の御遺徳を継承して財団法人「藤楓協会」が設立され、高松宮殿下を総裁に、ハンセン病の啓蒙と福祉事業に貢献されることになった。
 28年度は、会長・龍尾ひさし、副会長・今井種夫、幹事6名が担当した。3月19日大基総代をはじめ関係者、後援団体との初顔合わせを、林記念図書室において行ない、道路の補修、ラジオ番組の希望、治療棟における介助その他のことについて要望した。例年4月に行なっている総会は、後援団体の多忙から、5月5日午前の治療などで集まりにくい時間に行なった。
 5月22日より多磨全生園で聞かれた全患協支部長会議において、次のようならい予防法改正を求める骨子がまとめられた。
 一、らい予防法は保護法的性格を持った予防法とする。
   この際「癩」の名称を改め「ハンセン病」と改める。
 二、入所者の生活保護金(療養慰安金)を法定する。
 三、家族の生活保障を考慮する。
   現代の生活保護法の適用では患者の秘密が保持されないから、各療養所に特別民生委員を置き、これを通してその家族の生活を保護する。
 四、懲戒検束規定を廃する。
  イ、園長、職員は患者の保護者であり、園長の検束権は認められない。
  ロ、犯罪は刑法により処置する。
 五、強制収容の条項を削除する。
 六、全快者、又は治療効果があり病毒伝播のおそれのない者の退園を法定する。
 七、患者の検診、入所者の扱いに関しては秘密保持を厳にする。
  ○関係者による秘密漏洩に対する罰則を強化する。
 以上を内容とする予防法改正案について、総代より放送が行なわれた。これを聞いた若い人達や文芸団体などでは、進んだ友園の考え方に大きな刺激をうけた。続いて8月に届いた全患協支部報には、国会において予防法改正に対する三園長の証言取り消しについて支部意見が求められていた。その証言の内容は次のようなものである。
  宮崎恵楓園長の証言
  「らい患者は古畳の埃と同じで、叩けば叩くほど出てくるが、現在の法律では徹底した収容はできないから、本人の意思に反しても収容ができるような法律、強権が必要である」
  光田愛生園長の証言
  「家族内伝染を防ぐにはらい家族の断種がよいし、今度は刑務所もできたことだから、逃走罪という罰則をつくってもらいたい」
 我々を最も理解しているはずの園長が、かかる陳述をしたことについて、大島でも評議員会において、その発言取り消しを求めることを決議し、19日に回答を本部に送るとともに、自治会ではらい予防法改正促進委員会を設置したのである。
 家族の安泰を願い、音信をたち、耐えてきたのに、この我々の気持をふみにじり、家族にまで断種とは、とやり場のない怒りをおぼえた。全患協では、長谷川保代議士などを通じて、「らい予防と治療」に関する質問状を吉田総理に提出している。一度は新憲法にのっとって、らい予防法の改正を準備していた厚生省は、三園長の証言に従って、明治に作られた予防法をそのまま踏襲しようという考えに傾いていた。一方、全患協の要請を受けて、衆議院厚生委員の総意によるらい予防法改正の方針が打ち出されたところ、それでは厚生省の面目がたたないということで、こちらで作成するからと申し入れがあり、入園者と協議して作った「草案」を骨子にして立案する、という条件で譲ることになった。
 処が28年3月18日、本部に派遣されていた代表の報告によると、厚生省が国会に上程している改正案には、我々の要望に反して強制収容と懲戒検束規定が盛り込まれているだけでなく、強制収容には罰金規定まで加えられており、むしろ改悪の法案であった。この運動のなりゆきを見守っていた青年団、婦人会、文章会、思索会などは、緊急事態を迎えているにもかかわらず行動を起そうとしない自治会執行部にしびれを切らし、実力行使を要求する決議文を提出した。盲人会でもかねてよりこの動きに関心をはらっていたが、自治会の消極的な態度の理由は、作業放棄を行なった場合病棟や重不自由寮の入居者が困るだろう、という危惧によるものと考え、幹事会を召集し、我々もこの際、たとえ実力行使によって起こる不自由さには耐えて協力しよう、という結論に達した。さらに慎重を期する意味から、病棟及び重不自由寮の会員に諒解を得るため、役員が分担してその説明に廻った。中には消極的な意見もあったが、納得してもらった上、自治会に協力方を申し入れたのであった。こうした周囲の意見に、自治会は予防法改正促進委員会を開き、取り組みの強化と共に代表2名を本部に送り、4月15日には実力行使の可否を問う全会員の投票を行なった結果、87%が実力行使に賛成であった。
 そして小雨の降る6月20日、午後5時より会堂において患者総決起大会が開催された。会場には、盲人や足の悪い者をはじめ400名に余る入園者がつめかけ、読売や四国新聞社などの報道記者団がさかんにフラッシュをたいていた。委員長の大会宣言に始まり、各団体代表者より大会支持のメッセージが次々にのべられ、盲人会は山本青年団長に意志表示のメッセージを代読してもらった。そのあと大会決議文を満場一致で決定。園長にただちに手交すべく、霧雨けむるなかを、「強制収容反対」、「懲戒検束規定反対」のプラカードをかかげ事務本館前のグランドに向って隊列を組み行進していった。我々盲人も共に労働歌をうたいながらその後に続いた。グランドで待ちうけていた園長に大基実行委員長より決議文と作業拒否通告書を手渡し、不自由者へのしわよせはさけるよう強く申し入れた。
 そして6月30日、第一次作業放棄を決行。折りから衆議院では、厚生省提出の予防法改正案が、今日、明日にも通過しそうな情勢が伝えられ、栗生、松丘支部においてはハンストに突入。多磨支部は国会前に坐り込みを行ない、事態は急迫して行った。7月4日の早朝、委員長より、次の電文が放送された。「最後ノ阻止運動ノタメ拒否内容強化セヨ代表団国会裏ニテハンストニ入ル」この知らせで、押えに押えていた感情が爆発し、青年団、文化サークル、青松同人から6名がハンストに入り、次いで9名が加わった。これを聞いて籠尾会長が私の所に来て、ここに至っては自分もハンストに入ろうと思うがどうか、と言った。2人が話し合っているとき、朝食がきて看護人が食器に飯の盛り付けをする音が聞こえた。それを期に、2人は今朝の食事から断食してハンストに入ることを決め、自治会にその旨を申し入れた。そしてハンスト中の仲間に加わったが、後につぐ者も出て22名にのばった。中央より「悪法通過シタ残念 代表国会裏ニテ坐リ込ミ中 ハンスト押エラレタシ参院ニ運動起コセ」の入電があった。重苦しい空気と緊張のうちに2日が過ぎ、6日正午前、盲人会の半田顧問が我々の所に来て、会のこともあるしこの辺でハンストを解いてはどうか、との説得があった。それで籠尾会長と私は、会務のことも考え、6日正午をもってハンストを解くことにした。それからも実力行使は強化され、血書を持って本館前に坐りこむ者もあるなど、いろいろ曲折はあったが、8月1日、参議院において次の9項目の附帯決議を勝ち取り、長い闘争にピリオドがうたれたのである。
 参議院でつけられた附帯決議の概要は、
 一、患者の家族の生活援護は生活保護とは別建てにすること。
 二、国立らい研究所の設置。
 三、患者と親族の秘密の確保、入所患者の自由権の保護、文化生活のための福祉施設の整備。
 四、外出の制限、秩序の維持の適正化。
 五 強制診断、強制入所は人権尊重の建前にもとづくこと。
 六、入所患者の処遇について、慰安金、作業慰労金、教育娯楽費、賄費の増額。
 七、退所者の更生福祉制度の確立、更生資金の支給。
 八、病名の変更の考慮。
 九、職員の充実及びその待遇改善。
  というものであった。
 我々患者の人権闘争でもあった今回の運動を通じて、多くの教訓と示唆が与えられた。それは若い人達が真剣に自己の考えや意見を、弁論大会や壁新聞などに発表し、闘争の推進力となって一般入園者の共感を得たことであった。
 今期会務を担当した時から、現状に合わなくなった規約の改正と、療養所の底辺にある盲人の声を、何らかの形で表わしていくことについて話し合っていた。こうした析、邑久光明園の職員である森幹郎氏が来園され、恩賜会館において、我々盲人との懇談会が行なわれた。その時の話題は盲人の意識革新と点字の活用ということであった。盲人もこれからは自主的に考え、行動することが必要であり、それには盲人の文字である点字をまず習得することであると指摘され、大いに啓発された。会では早速、高松の盲学校に見本の点字器を注文したところ、点字器一台が寄贈され、会員はそれぞれの手にふれて、初めて点字器というものを知ったのである。点字を習うといっても誰一人知っている者はなく、職員の奴賀氏に依頼して盲学校で点字を憶えて来てもらうことから始めた。
 かねての懸案であった規約を改正する為の打ち合わせを、9月14日林記念図書室において開き、今後のスケジュール等について青年団幹部と役員で話し合った。有識者の意見を参考にしながら会合を重ねて草案をまとめ、10月25日、秋の総会において新会則の審議を行なった。山本青年団長より、新旧の会則を対照して逐条別に読んでもらい、改正点を会長より説明した。改正点の主なものは新たに役員の選出規定を加えたのと、これまでうたわれてきた、自治会の評議員に選任された者は自動的に顧問に任ぜられる、という規定を削除し、規約を会則と改めたのである。
 こうして新たに歩みだそうとしていた矢先、会の発足以来後援団体として援助を受けてきた青年団、婦人会が29年3月1日をもって解散するという思いもよらぬ事態に遭遇した。我々は杖を失なったような狼狽をおぼえたが、会を維持してゆくには後援団体に代る世話係の必要から、自治会との交渉をすすめた結果、自治会の理解によって作業制による世話係2名が配属されることになった。
 そして3月8日、29年度の役員選挙が行なわれ、会長・藤田粂市、副会長・木島兼治、幹事6名が選出され、新年度のスタートを切ったのである。しかし突然、藤田会長が入室し、その快復を待ったが病状は思わしくなく、ついに3月28日午前2時40分亡くなったのである。会長の入室というなかで、会員の意見を聞くため寮まわりを行ない、3月18日の幹事会において、その意見を参考に初めて次のような事業計画を立てたのである。
 一、座談会 二、懇談会 三、点字講習会 四、レコードコンサート 五、機関誌発行 六、短文芸募集 七、娯楽として正月、盆前後にくじ引きを行う、八、ボート遊び 九、テープレコーダーの活用 十、友園交歓 十一、読書会
 これまでは後援団体の都合を伺って何事も行なうという状態であったが、作業制による世話係の勤務は午前午后となり、時間のゆとりもでき、世話係の献身的な努力によって、次々と新たな事業や行事が加えられていった。殊に機関誌の発行については年来の希望であったが、時期尚早という意見もあり、幹事会でも容易に結論が出なかった。
 しかし我々の意見や要望を外に向けて出して行かない限り、会員の福祉も発展もないという考えに基づき、4月25日の総会において討議し、機関誌発行を決定したのである。この件について自治会、山田総代、山本文化部長の理解をも得て、自治会より謄写版及び洋紙の援助が受けられることになった。そして会員より原稿を集め、世話係の手によってガリが切られ、園内の晴眼者だけにでも読んでもらいたいという願いから、表紙らしい表紙もない、わら半紙の16頁というささやかなものであったが、「灯台」第1号が誕生したのである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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