わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第2章 脱 皮(昭和26〜34年)

 13 水
            北 島 澄 夫

 最近この島の療養所では、水の問題がますます深刻になりつつある。勿論これまでにも決して水に恵まれていたわけではなかったが、これほど長く、そしてこんなにひどくゆき詰ったという記憶を私はもっていない。
 昭和14年、南の山の中腹をとりまくかたちで3530メートルの集水路が作られ、山あいに14800立方メートルの貯水池が設けられた。この貯水池が満水すれば2カ月は使用できる計画であったが、満水したのはこれまで2回だけであったという。戦後山裾に何本か掘った補助井戸や、古くから島民が使っていた井戸水をモーターでタンクに汲み上げ、給水されてきたものである。
 現在自治会においても、この対策に苦慮しているようであるが、なんといっても根本的な水源の確保ができておらず、雨水や節水によってその急場を切り抜けてきただけに、こうなってはもはや致命的であり、水争いのないことがむしろ不思議なくらいである。
 水道が1日1回30分足らずの給水に制限されてから、はや2カ月余りにもなるが、このような状況のもとに営まなければならぬ療養生活は、まことに惨めなものであり、誰より不自由者の生活がおびやかされていると思うのである。
 たとえば入浴の場合に例をとってみても、1週間に1回か2回風呂が焚かれてはいるが、しかし1か所の浴場だけで5、600人をさばくということは、どう考えてみても無理であって、そうなると結局不自由な者が締出しを食うかたちになってくるのである。事実盲人会の会貝のなかには既に2、3週間も入浴しないという者が幾人も出てきたので、止むなく自治会にこの実状を説明し、やっと1週間に1度仕立てられる病棟風呂の利用を認めてもらい、どうにか切り抜けているのが現状である。
 この外病室では病人が使う洗面の水を、保清婦や看護婦が毎朝汲みあるいているというし、また私の部屋の前にある井戸の水を汲みにくるバケツや水桶の数も、延べにして1日300を下るまい。寮舎にはそれぞれ水道の設備があるというのに、水が出ないためこんなところまで、義足を気にしながら水を汲みにこなければならない人々も気の毒であるが、なかでも私には弱視者のことがより強く心にかかるのである。
 迷いながらよろめきながら浜寄りの寮に帰って行くという、その人たちの様子を聞くたびに、なぜ関係機関に話しをして、欠かすことのできない炊事用の水だけでも、臨時作業で運搬してもらわないのだろうかと、何度思ったことか知れない。
 この療養所の水は少ないというだけではなく、水質も非常に悪くて、少し晴天がつづくとすぐ塩分が多くなり、お茶も満足に出せないほどである。
 ある晩病室を訪問したときのことであるが、熱発のため苦しんでいた一盲友が、故郷の水を一口飲んでみたいと、しんみり言った言葉を忘れることができない。また私自身も三園盲人協議会に出席して、愛生園でいただいた味噌汁の味や、栓をひねればいつでも真水の出てくる水道のあったことが羨ましくて仕方がなかったが、こうなってみるとその感じはいっそう強い。
 この島でも150メートルないし200メートルくらい掘れば、確かに有望な水脈があると地質学者もいっている。幸い2、3年前だったと思うが、本省から予算をもらって90メートルほど試掘されたが、予想していたほどの水量がその深さからは出てこなかったため、本省ではこの島には水脈が無いとして、われわれの今少し掘り下げてもらいたいという陳情を無視し、予算を打切ってしまった。
 その結果今日の事態を引き起こしたものであって、人道的にも大きな問題である。従って掘り続けるための試掘費と、本掘りに至る予算措置を早急に講じていただき、私たち入園者が、特に不自由な者が安んじて生活できる療養所にしてもらいたいものである。何をおいてもまず私達の水の問題を解決しないことには、一人ひとりが待ち望んでいる明るくて住みよい療養所の実現は、期待できないと思うのである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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