わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第2章 脱 皮(昭和26〜34年)

 14 盲導鈴の予算化を望む
            籠 尾 ひさし

 現在チンチン式電気盲導鈴が6か所に備えられているが、これは藤楓協会の寄附金と自治会の補助によって、昭和29年の秋敷設されたものである。当時はこれといって盲導設備がなかっただけに、一定のリズムで鳴りつづける盲導鈴のさえた音色は、杖のみに頼っていた私たちにとって大きな喜びであった。過去においては鈴を吊るして道しるべにしていたようだが、強風の日はやかましく近くの寮の人に迷惑がられ、また内海特有の夕凪ぎには何の用もなさず、それに雨風にさらされているので、鈴の紐がよくちぎれて困ったという話であった。
 私は27年治療の甲斐もなく遂に失明し、杖を特って治療棟に通うことになってからは、盲導設備の必要性を切実に感じるようになった。その頃私は何かの記事で、京都のある篤志家が長島愛生園に電気盲導鈴を寄附したということを知り、早速電気盲導鈴に関する資料をあちこちから集める一方、友園交歓船で来た長島の盲友にくわしい実状を聞いたのである。そして京都で電気盲導鈴が試作されていることを確かめると、自治会にその資料を持ってゆき、単価が8000円という高価なものではあるが、さしあたり必要な6基を購入してもらうよう要請したのであった。私自身電気盲導鈴に対する知識があさく、少々不安であったが、とりつけてもらった結果は予期していた以上にすばらしく、停電という欠点もありはしたが、当時としてはやはり最上のものであった。
 ところが1年もすると、歯車やモーター等に潮風による故障が相次ぎ、盲導鈴に頼って歩くようになっていた私たちは、その都度道に迷うという困った事例が出てきた。そこで自治会に修理をたのんだが、厚生省の予算で設置したものでないので、その経費の出どころも決まっておらず、また近くに修理してくれるところがなく、京都の製作所まで送らなければならなかった。その上1基の修理が半年以上もかかる始末で不便をかこっていた。
 そこで私たちは、チンチン式電気盲導鈴にかわるものはないだろうか、と話し合っていたとき、ちょうど来園していた大阪の下里さんが、電気器具製作所に勤めていることを聞き、私は電気盲導鈴のことについて相談した。それからも下里さんはたびたび訪ねてくれ、今の盲導鈴では耐久性がなく、故障も起りやすいので、全寮に流れている有線放送を利用してみてはどうだろうか。仮にオルゴールの曲を流せば、盲導鈴として充分活用できると思う。それだと故障も少なく、曲に変化をもたせることができて、晴眼者にも親しみをもってもらえるのではないか、というアドバイスを受けた。
 私たちはこのことを幹事会で検討し、今の放送設備を利用するとすれば娯楽番組が犠牲になり、お知らせ事項などで度々中断されるため、この使用は不可能ということになった。別な方法として、新しく盲導鈴用のセットを購入し、放送室より各所にとりつけるスピーカーに流すという方式を考え、自治会に申し入れた。自治会でも私たちの現状をよく承知していたので、早速計画をたててくれたが、十数万という予算の出どころがなく、止むなく断念せざるを得なかった。
 全盲速ニュースによると、ここ2、3年のあいだに友園においては、このオルゴール式盲導鈴をすでに使用しているとのことである。しかし盲導施設の予算化が認められていない現在、自治会のヤリクリによってとりつけられているに過ぎず、どの園においても、この財源に苦慮しているようである。
 26年度夫婦寮の新設によって、入園者の区域が拡張され、会員もあちこちに分れて生活するようになった。これまで治療棟へ行くにも一すじ道であったが、夫婦寮ができたため道も複雑になり、その上舗装もされていないので、雨の日などには水溜りができ、知人や友人の肩を借りなければならない状態である。盲導鈴や盲導索を設置してもらえば、治療や浴場、集公等にも自分一人で行くことができ、私たちの生活がより楽しく、明るいものになることと思う。
 全盲連では盲導施設整備費の予算化を、重点項目の1つとして掲げ、厚生省に要請してきているが、更に実現に向って強力な運動をおし進めてゆかなければならないと思うのである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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