わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第2章 脱 皮(昭和26~34年)

 18 盲人会館落成祝賀演奏会
            吉 田 美枝子

 伊勢湾台風にも劣らぬ大変な勢力と降雨量をもつと報ぜられていた台風が、今日か明日かに迫っているという。まことに緊迫した10月16日の午後5時、私たち盲人会の民謡クラブとハーモニカオリーブバンドによる合同演奏会が、この夏新築された大島会館において幕を開けた。
 それは永年私たちの夢であり希望であった「盲人会館」が、去る8月20日、岡山の河野牧師をはじめ園内外の理解ある多くの方々によって、落成をみることができた。私たちはその喜びと感謝の気持を伝えたいと思い、これまでも何度か録音によって園内放送したことのある民謡とハーモニカの演奏を、会館でやってみようということになり、自治会文化部の後援を得て、今回の発表会となったのである。
 見えぬ目にも眩ゆいばかりの照明と、割れるような拍手に迎えられて、初舞台の緞帳がしずかにあがる。中央には足の悪い歌い手のために用意されたテーブル、その上には「園芸親交会」より贈られた菊が香気を放って、一段と精彩をそえてくれる。
 まず最初に、会を代表して今井さんより感謝と開会の挨拶があり、いよいよ第1部の民謡がはじまる。司会者はこの春まで世話係であった高橋房男さん。マイクに向うと持ち前のユーモアで場内を爆笑させる。歌い手のトップとして、若い頃美声で鳴らしたと言われる山口あやめさんの「白頭山節」、やや固くなっていたとは言え、知る人びとを懐しがらせるシブイのど。つづいては民謡部の大鼓の名手河淵数馬さんの「越中おはら節」、72キロの体?から出る声のボリュームは、楽屋にいる私たちをいやが上にも昂奮させる。次は、「災難の一日」を灯台誌に書き、人気者になった藤屋大治さんが歌う「新鴨緑江節」。また盲人会副会長の半田市太郎さんの「盲人会館落成を祝う」自作の詩吟。還暦の装束に身を包んだ中山キクヱさんが、年を寄せぬ張りのある声で、
♪イヅモメイブツ ニモツニャナラヌー、
という、あの「安来節」、その名調子に合せて晴眼者の娘さんによる「どじょうすくい」のあでやかな踊りに、満場騒然と湧く。いずれも造花を咲かせた胸いっぱいの声で歌い、第一部民謡の部を終った。
 つづいて「青い山脈」のメロディのうちに、第2部オリーブバンドの開幕となる。ピンクの幕を背にしたステージにそれぞれ陣どったバンド員は、白いワイシャツに紺のズボン、ブラウスにスカートという揃いで、1部とは趣きを異にした明るさで颯爽とたつ司会者は、知性的容姿の猪塚看護婦さん。さわやかな声で紹介された歌手は、会員からただ一人のホープの龍尾ひさしさんで、曲は「さよならふるさとさん」。それにつづく歌姫は准看護学院1年生の皆さんで、羞らいをふくむ匂やかさは、まるでほころびはじめた白バラにも似て清潔そのもので、「十九の浮草」、「忘れえぬ人」、「ここに幸あり」など8曲の歌声は、甘くやわらかく場内を魅了し、拍手はいつまでも鳴り止まなかった。素人ばかりのそれも初舞台だったにもかかわらず、600に近い人々が会場に詰めかけて、惜しみない声援をおくってくれたことを思うとき、目頭がジーンとしてくるのを覚えた。
 私たちは後遺症も多く、練習中に熱を出して入室したり、神経痛などでいく度かパートの編成替えをしなければならなかった。その上この夏のかんかん照りにはみんなまいってしまい、今回の演奏会も危ぶまれたほどであった。しかしこうして無事に終えることができたのは、会務の合間をみて出演者の胸を飾る造花を作ってくれた世話係や、身近な人々の支え、そして直接間接に寄せられた多くの方々の応援によるものである。心配していた台風も一滴の雨も落とさずにそれるという幸運に恵まれて、第1回合同演奏会の幕は、盛会裡に閉じられたのであった。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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