わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第2章 脱 皮(昭和26〜34年)

 17 【座談会】盲人会館の落成をみて
     出席者 今井 種夫 半田 市太郎
                            賀川 操  北島 澄夫
                        司 会 吉田 美枝子

司会 本日は、この度新しく出未ました盲人会館にお集りいただき、今後の盲人会活動といったテーマで、皆さんにお話しあい願いたいと思います。それで、まず最初は、やはり盲人会館の設立について、画期的な運動に入った頃から話しを進めてゆきたいと思います。
 今井さんは当時会長であったわけなんですが、その頃の動機とか、様子とか、そうしたものを簡単にお話しして下さいませんか。

今井 31年頃から盲人会内においてもハーモニカ、川柳、民謡のグループができ、すでにできていた読書、点字の各グループを加えて、活動が活発になってきたんですが、このグループ活動を行うにしても場所がないため、なんとかして盲人会館が欲しい、ということが会員の切実な声となって出てきたんです。灯台誌上でもこのことを強く訴えてきましたし、野島園長先生はじめ職員の方がた、また自治会におきましても十分私たちの実状を理解して下さっていたんです。しかし、会館建設ということになれば大きな予算が伴うことで、容易なものじゃなかったんです。
 そんなとき、高橋先生や岡山の河野牧師の発案によって、盲人会館を建ててやろうという話しが進められ、園をあげての具体的な計画になってきた訳なんです。初めてこうした話し合いが行なわれたのは、33年の1月でした。

司会 初めの計画は、どういうものであったんですか。

賀川 全生園においてはMTL(現JLM)の寄附金によって建てたということを聞いていましたので、うちの場合もMTLにお願いして寄附を仰ごう。もしそれが出来ない場合は、一般から寄附を募ってでも建設しよう………と、園長先生、河野先生なども非常に力を入れて下さったんです。
 そして、河野先生、職員の海老沼さんが、MTLにお願いに上京して下さったのです。その途中、横浜「みちしるべ社」の安田先生のお宅へ立ち寄られて、先生にも協力方をお願いして下さったそうですが、丁度そこに米軍キャンプの払い下げの用材が積まれているのを見て、こういう家でも払い下げてもらえれば盲人会館に出来るんじやないか、と思われたそうです。それからMTLへ行っていろいろ話して下さったのですが、青松園は、盲人会館より水の問題(水源の試掘)が先決ではないか、ということで、駄目になったんです。それで、前に聞いていた米軍キャンプの払い下げを受けることに踏みきり、横須賀の米軍本部へまたお二人が行ってお願いして下さったそうです。

司会 そのあとを北島さんが引き継いで進めたという訳なんですか。

北島 そうです。私が会務を担当するようになったのは33年度であったんですが、その時にはすでに、運動の方法だとか、募金の目標額など、具体的な事柄は、園当局、自治会、盲人会の三者の間で決定をみておりましたので、その線にそって運動を促進すれば良かった訳です。つまり、駐留軍のカマボコ兵舎を河野先生を通じて払い下げてもらい、それを盲人会館として旧学校跡に建ててもらうということと、その資材を運ぶ運送費、改造費などを、一般有志の方がたのご協力を得てととのえるということだったんです。

司会 それが途中から、このような立派な建物に変ってきた経緯というのは………。

北島 かねて本省に請願しておりました大島会館の新築予算が、昨年度において認められ、いよいよこの園内にもそうした建物が建つようになった訳なんですが、その敷地の一角に、盲人会館の前身でありました「記念会館」が建っていたんです。で、どうしてもこれを動かして、その跡を大島会館の敷地にしなければならない必要に迫られて来たんですが、それを動かすにはかなりの経費もかかり、また建物に無理のいくといった事情から、もし盲人会の方でこれを盲人会館として移改築するならそちらに譲ってもいい、という相談を自治会の方から受けた訳なんです。確か、昨年の8月中旬頃だったと記憶しておるのですが………。
 そこで盲人会ではいろいろとこのことについて検討を行なったんですが、それまで運動を続けてまいりましたカマボコ兵舎の方も、初めの見通しより、払い下げを受けられる日時かずれ、また見通しも一向はっきり致しませんでしたので、私たちが記念会館を譲り受けても問題が残らないようであれば、盲人会館の実現を待ち望んでいた私たちとしては、一日でも早い方が良いという訳で、この建物を譲り受けることになった訳なんです。

司会 では、その時の坪数なり、畳数などはどの程度のものを考えておられたんですか。

北島 私たちの考えておりましたのは、坪数にして25坪以上、畳数は45畳から50畳程度は欲しいと思っておりましたね。大体これ位あれば集公用の大広間が一つ、事務室その他の小部屋が一つ確保出来るんではないか。また、最低その程度の条件を備えていなければ、折角譲って頂いても、これだけの会員をかかえている我々の会館としては、十分活用出来ないのではないか、と考えていたんです。それで実地踏査を行なってもらった結果、私たちの考えていた線よりは坪数、畳数共に十分確保出来るということがわかりましたので、譲って頂くことに、下旬頃最終決定をみた訳です。

司会 それでいよいよ話しも決まり、工事にかかった訳なんでしょうが、今井さん、賀川さんが運動を始めて、中1年おいて、今井さん、賀川さんの時に落成をみたっていうこと、考えてみると仲々意義があるんじゃないですか。

今井 最初私たちが思っていた以上の立派な会館が、園長先生、海老沼さんをはじめ、各関係者のご努力と、一般社会の人びとのご協力を頂いて、しかも短時日の間に設立されたことは全く感慨無量です。

賀川 ほんとにそうですね。自分たちの時に、会館建設が具体的に計画されましたし、それにまた落成式も行なわれたのですから喜びもひとしおです。
 特に河野先生は詩集「雑草のような母」を発刊され、その売上金を会館建設に寄附して下さったり、板口富美子さんも歌集「地の上の花」を沢山寄贈して下さいました。また、京都の木本先生が募金のための尺八や琴の演奏会を開いて下さったことも感謝です。

司会 運動始めてから僅かの間に、こんな立派な会館が出来たということ、園も盲人会も運動したけれど、それを助けて下さった社会の多くの人たちの賜物もあったと思います。
 それでは話題をかえて、盲人会のことに移したいと思います。盲人会が結成されたのは昭和7年で、ずいぶん長い歴史をもっているんですが、初めは、なんと言いますか、盲人同士が互いに慰め合うというような趣旨で会が結成されたと聞いております。それが、こうした活動的になったのは、いつ頃からなんでしようか。

半田 この会館が出来たことについては、皆さんお話しなすった通りですが、昭和7年の5月に盲人会が発足して以来27年になりますが、その間私たちは、こうした盲人会館、いわゆる集会所というものを非常に求めてきたんです。
 ところが、29年に後援団体の青年団、婦人会が解散しましたので、それに代り作業制による専任の世話係をつけてもらい、会務がスムーズに行なわれるようになって来たんです。それから、会の機関誌「灯台」の発行、点字講習も行なわれるようになって、ぼつぼつ活動が始まったのです。

司会 縫工所が出来て、そこの一室を借りられるようになったのは………。

半田 昭和30年に縫工所が出来まして、それからずっと、その一室6畳を盲人会で使用させてもらい、会務をとったり、グループ活動をしたりしてたんですね。

司会 その頃からじゃないんですか、グループ活動が一層活発になってきたのは………。

半田 そうですね。それまでは活動というものも大したことはなく、文芸や台詞劇などをやってはおったんですが、みんなが一つのグループというものを組織して、そして活動に入って来たというのは縫工所を借りられるようになってからのことですね。

司会 縫工所を借りられた30年ですか、それから、今度新しく会館が建つまで、まァ4年位の間ですね、その間にすごく変って来たと思うんですがね。去年よりは今年といったふうに、会務の方も繁雑になって来たと思うんですが、そういう点を、ちょっと………。

半田 あれは30年ですか、全盲連が組織されて、それから日盲連ともつながりが出来、社会的に目ざめて来たというんですか、時代の移り変りというんですか、そうしたことが一つの覚醒となり、また一般社会の方がたの理解も出来てきて、対外的にも本当に発展して、次第にせわしくなって来たんです。

司会 北島さんは昨年度会長をなさっていて、繁雑になって来た会務と、週一回の日程が取りかねるグループ活動との間で、いろいろと考えられたことが、多くあったろうと思うのですが………。

北島 それは私ばかりでなく、前の会長であった今井さんにしても同じだったと思うのです。と言いますのは、われわれが事務室として、あるいは集会所として借用しておりました縫工所は、評議員会だとか、寮長会、各種趣味団体などの集会所にも当てられておりましたし、また、夏期大洗濯の際のミシン裁縫だの、友園との親善交歓、その他の接侍所にも使用されておりました関係で、差支えることが多く、思うように利用出来なかったわけです。たとえば、われわれの方で点字講習会や音楽、民謡などの練習を予定しておりましても、評議員会が行なわれることになれば、それを中止するか、何処かへ場所を移さなければならないといった不安定な会活動でした。
 丁度昨年度は、盲人会館の促進運動、国民年金の獲得運動、身障者諸費、その他予算関係の増額運動といったふうに、文書活動を活発に行なわなければならず、その処理に苦労したわけです。具体的に言いますと、全盲連本部から、この議題に対しては書面会議の意見書を何日までに、そして裁決書を送れと指示を受けても、それを審議し検討する場所がない。また、機関誌灯台の編集を行えばグループ活動が出来なくなるといった始末で、ずいぶん困ったものです。
 こんな訳で、各グループのほうから、せめて週1回程度の日程は確保してもらいたい、といった申し出を受けたときほど盲人会館が欲しいと思ったことはなかったですよ。

司会 そういった状態の中では、グループに参加していない会員が集ってくる余地はなかったでしようね。

北島 確かにそういうこともあったでしょうね。折角気持が動いても、かりの場所で、いつ、どのようなことで、帰らなければならないといった不安があっては、いきおい出渋ったりしていた会員も、ずいぶん多かったと思うんですね。

司会 それでは、この会館に移って、一戸かまえたということになったんですが、当面している問題といえば、どんなことなんでしょうか。

今井 まず会館の管理をどのようにすればよいか。私たちは宿直の管理人をつけて頂きたいと思うのですが、現在まだ認められていないのです。午前と午後は世話係がいてくれるのですが、夕食後も出てもらうということは無理です。従って、夕食後のグループの集いや、その他会合でタバコを吸ったり、また寒いときの炭火の後始末など、盲人ばかりでは危険だと思うんです。それと共に、グループに参加していない会員も気安く、いつでも、この会館に来て遊べる状態にしておきたい。それにはどうしても管理人が必要になってくるんです。

北島 待望の盲人会館が設立され、われわれのものになったんですから、今後はここを最大限に活用し、いつでも会員の談笑が聞こえるところまで持ってゆきたいと思うのです。それには、幹部もその方向に働きかけなければならないだろうし、また会員も意識を高め、会活動に積極的になってもらいたいと思うのですね。その基礎となる会則の改正も今回行なわれ、躍進体制も整ったんですから………。

半田 北島さんが言ったように、この会館が幹部や一部の会員のものになってしまうんではなく、ひとつこの際、会員一人ひとりに自覚してもらいたいと思うんです。

今井 盲人会は全盲連の組織体であり、県盲や日盲とのつながりもあって会務が繁雑なわけなんです。しかし、この会務はあくまでもわれわれ会員の福祉のために行うのですから、優先しなければいけないと思うんです。

司会 これまでグループ活動には世話係がついて世話をしてきたのですが、今後つきっきりという訳にはいかなくなると思うんですが、その点は………。

今井 やはりこれからも会務は拡大されてゆき、世話係の手も限られるので、グループ自体で動くというような態勢が必要じゃないかと思うんです。

賀川 これからはグループ活動も活発になると思うし、一般会員にも会館へ来てもらうようにしなければならない。その上会務の処理ということもあるので、それをどのようにコントロールしていくかが問題です。

北島 それは今後考えなくてはならないね。現在はこうして3部屋もある会館をもつことが出来、世話係も増員されて4名になりましたので、われわれの方で新しい計画を立ててやろうとすれば、いくらでもやれる方法はあるのですから………。

今井 幸い近頃私たち盲人会に対して、園内の理解者が増えてきたということは、まことに有難いことなんです。こうした理解者が賛助者となって援助してあげよう、という声もぼつぼつ聞くわけなんです。出来ればこのような人たちのご協力を得て、グループ活動を盛んにしてゆきたいと思うんです。

司会 そうですね。グループ活動にしてもまた盲人会館の管理、活用にしても、なかなか大変でしょうが、最後に今後の希望と言いますか、そういったことを一言ずつ………。

今井 これまで話し合ってきましたように、この会館を十二分に活用していきたいし、全盲達の組織をかためて会員の福祉向上を計り、会館建設にご協力下さった一般みなさんのご厚意に応えるよう、努力したいと思うんです。

半田 会員は一人でも多く会館へ来てもらって、盲人の暗いかげをなくし、明るい療養生活を送れるようにしてゆきたいものですね。

賀川 今まであまり会合に来ていない人にも会館に来てもらわなければ、会の充実も計れない訳なんですから、そういった人たちになるべく盲人会館へ来てもらいたいと思うんです。

北島 会発展の基磯である盲人会館の実現をようやくにして見たんですから、今後は地に足のついた健全な会活動を行なって、質的な向上を計りたいと考えます。

司会 今後とも会発展のために、またそれぞれのグループにおいても、みなさん方のご活躍をお願いいたしまして、きょうの座談会を終ることにいたします。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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