わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第2章 脱 皮(昭和26〜34年)

 3 悪い道
            故 山 藤 慈 海

 昭和2年に作られたコンクリート舗装の幹線道路が10数年前頃からいたみがひどくなり、担架車や不自由寮へ食事を運ぶ大八車を引くのにがたがたして大変困っていた。
 その当時から、道をなおすと言いながら、現在までそのままになっている。なおされない理由は、いつも、金がない、予算がない、で通されてきた。いつになったら立派な道が出来るのか。一番苦しむのは私たち盲人である。道に迷い、つまずいて転び、水たまりにふみ込んで足をぬらしたりして、数年をすごしてきた。目のあいている人にはこんな苦労は分らないかも知れないが、盲人にとって道路は生命線ともいえる。
 誰も口をひらけば、明るい療養所を築きあげなければ・・・、と言う。その通り最近では、夫婦寮が建ち、病棟が新しくなり、療養慰安金も増えて、自転車がせまい道を走るようになり、一応理想に近づいたかに見える。しかし、片隅におかれる盲人や不自由者の日常生活の苦しみは見すごされがちである。
 その中の一つに道の問題がある。道路をなおし、あるいは広くし、新しく舗装するには、とてつもない大金が必要であり、直ぐにはどうにもならないものかも知れない。だが、明るい療養所作りを目指すには、まず道路の舗装を実現させるべきであろう。
 もちろん、予算の獲得が先決問題であるが、それには私たちも出来る限りの運動をしなければならない。そうして、一日も早く、盲人が安心して歩ける道路にしたいものである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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