わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第2章 脱 皮(昭和26〜34年)

 5 重不自由者寮に移って
            田 中 京 祐

 私が独身重不自由寮に移ってきた当時は体が弱く、寮にいるより病棟に入室しているほうが多いほどでした。しかし最近は、幾分健康をとりもどしました。
 そして、元気になったら盲人会の会合などに出席しなければ………と思い、川柳や点字のグループに入れてもらいました。これらのグループに参加することによって、気持の上にも大きな張りができ、明るい気分になりましたが、重不自由寮にいて、週に2回も3回も盲人会に出て行くのが、なんだかひけ目を感じるようになりました。それというのは、重不自由寮にいて出歩きできる者は、そこに居なくてもよいというような声を耳にしていたからです。私には、これは大きな壁であり、疑問であります。
 重不自由寮の生活は、といいますと、朝から晩まで柱を背にし、三度の食事と手洗いに行くぐらいで、見えぬ目をどこかの一角に投げかけ、考えているのか、それとも眠っているのか、まるで“板つき人形”のように、日がな一日坐り続けるというありさまでした。もちろん、食事の間で煙草をつけてもらったり、お茶を飲ましてもらっています。また、ホーム・ラジオが備えられたので、それを聴く楽しみが加わりましたが、そのラジオも共用なので、自分の趣向に合ったものが聴けるのではなく、聞かされるというのが実感です。
 重不自由寮にいる者は半数以上が盲人会員ですが、会から集会の知らせがあっても、年に2回の総会にさえ出席しないというありさまです。それは、住込み看護で、寝床の上げ下げから食事の世話、そして治療や散髪にも来てもらい、風呂へも車で連れて行ってもらう生活だから、ひとり歩きしてはいけないという気持が、内にも外にもあるからだろうと思います。そうした気持のために、重不自由寮にいる者は一歩も出歩きできず、何もしてはならないという雰囲気があるからです。しかし、重不自由寮は、私たちの最後の生活の場なのですから、もっと潤いと自由がほしいものだと思います。
 と言っても、今のすべてに不満を感じているのではありません。むしろ、看護人さんには親切にしてもらい、毎日を感謝しております。唯、重不自由寮にいても盲人会の集会などには気がねなく出席できるような、そんな雰囲気を作っていきたいものと考えます。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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