わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第3章 環境改善の闘い(昭和35~42年)

 23 点字図書室の完成
            北 島 澄 夫

 昭和39年12月18日、この日は点字図書室の落成式が行なわれた記念すべき日であった。幸い当日は天候にも恵まれ、園から野島園長他関係職員、自治会正副総代及び幹部役員、その他協力者多数の来賓を迎えることができ、心のこもった祝辞を頂き、また外部の方々からも祝電が寄せられるなど、大きな喜びと感激に包まれた一日であった。この蔭には、日本MTL(現JLM)の杉山健一郎先生や河野進牧師、広島県の真田静枝様、多磨全生園の小野宏様をはじめ、設立にご協力頂いた多くの方々のあったことを忘れることはできない。
 私たちが何故これほどまでに点字図書室を願い求めなければならなかったか。盲人会館があるにもかかわらず、更に点字図書室を必要としたのか。それは、年を追って会活動が活溌化し、外部との交流が頻繁になるにつれて、私たち盲人会に寄せられる理解も深まり、なかでも点字書の寄贈を沢山受けるようになったからである。その上に、厚生省依託によって日本点字図書館、日本ライトハウス等から配布される点字書が、年間かなりの数にのぼり、いつの間にか千数百冊を越えるようになったのである。
 私たちはこのようにして多くの所から寄贈された点字書を、管理上の不備から傷つけては申し訳ないと、あちらこちらから書棚を調達してそれに納めたり、しまいには医務課から医療器具を入れていたケースまで払いさげて貰い、改装して図書ケースにあてるなど、いろいろの方法を講じて保管と管理につとめたのであった。しかし、かさばる点字書はすぐ一杯になってしまい、次々に寄贈されるものをどうしても収めきることが出来なくなり、ついに3、4年前から押入れの中に一部を入れなければならなくなったのである。
 私は何かの用事で押入れをあけ、そこに積みあげられている点字書にふれる度に、折角寄贈された書籍を、たとえどのような事情があるにしても、こんな所に置いていては甚だ申し訳ないことである、と自責の念にかられていた。
 特に点字書は、ひと粒ひと粒の点の組み合わせによって文字が出来ているため、積み重ねるとその点が押しつぶされ、舌読が一層困難になる。会員の中にも、いつまでもこのままにしておくことは出来ない、なんとか対策を講じなければ、という声が次第に高くなりつつあった。この打開策として、やはり、友園盲人会にあるような点字図書室を増設する必要がある。これ以上図書棚をふやしても、もはや据える場所がなく、外観的にも見苦しい。
 現在の盲人会館は3つの部屋になってはいるが、薄い唐紙ひとつで仕切られているに過ぎず、一方の部屋で録音でもすれば、それが済む迄は、他の部屋では物音を立てられない状態である。また、テープの再生やグループ活動を行なっても、その音が全部の部屋に拡がり、3つの部屋に分れてはいても、結局1つの部屋といった使い方しか出来ない。従って、点字図書室を増設し、そこで静かに点字を読み、テープを聴き、思索にふけるこどが出来るようにしたいものである。そして、押入れや広間に置いてある点字書を、分類して図書室の書棚に納め、利用し易くするとともに、点字講習会や声の便りの収録、読書会などにも活用したい。そうすることによって、繁雑化している全活動をある程度コントロールすることが出来る。たまたま、この年37年は、会創立30周年にも当っていることから、記念事業として点字図書室設立の運動を起すことになったのである。
 そこで、会から園長並びに自治会に対して、点字図書室設立に関する要請書に添え計画書を提出したのは、秋のはじめであった。だが、この手続きをとるに当って、私たちにあるためらいがなかった訳ではない。それは、盲人会館が建設されてまだ何年も経っていないのに、点字図書室の増設を持ち出すことは果してどうであろうか。私たちにとってはノドから手の出るほど欲しい建物ではあるが、それを周囲の人々や関係者に理解してもらえるであろうか。或いは少しぜいたく過ぎるといった批判を受けはせぬか。そんな一抹の不安を感じていたのであるが、幸い園や自治会でも私たちの窮状をすでに知っていて、計画に対する全面的な承認を得ることが出来たのである。しかし運動を起す時期については、園でも多くの整備計画があるので1年ばかり待ってもらいたい、という意向であった。私たちもそれを了解して具体的な運動に入ることを見合わせ、結局、この年は各機関の内諾を得たにとどまったのであった。
 この点字図書室設立の運動が具体化したのは昭和38年であるが、そのきっかけは真田静枝様によって作られたのであった。真田様と私たちとは10年近い交わりを続けており、最近ではテープによる声の便りなども頻繁にかわされるようになっていた。それで、この年の総会の模様を録音して送ったところ、その中に点字図書室設立についての経過報告や会計報告等がはいっており、それを聴かれた真田様が、総工費50数万円を要する計画というのに、集っている金は僅か5000円足らずというのでは、いつになれば皆さんの願いが実現するのか。私で何とか役に立てば………と、MTL宛に要請の書簡を出して頂いたようであった。それに対して、杉山健一郎先生から、事情はよく分った、何とか検討してみたいので急いで計画書を送るように、とのご理解ある親書が寄せられたことから、この計画がにわかに進捗を見るに至ったのである。
 更に、真田様は病躯をおして100通に近い書簡を各関係者や友人知己にも出され、多磨全生園の小野様も募金についていろいろご協力頂いたのである。会としても設立促進委員会を設け、会員からの拠金、最終的な青写真の作成等を急いだのであった。こうした私たちの動きは海老沼分館長からMTLに伝えられ、理事会において杉山、河野両先生から説明がなされ、万場一致で承認されたのである。
 以上のような経過をたどり、待望の点字図書室が異例ともいえる早さで実現をみることが出米たのである。しかもそれが多くの人々の理解と善意によって建造されたものであるだけに、設立の意義は極めて大きいといえよう。
 私は今、完成の喜びにひたりながら、この建設にご協力頂いた多くの方々のご厚意に応えるためにも、今後この点字図書室を一層有効に活用し、点字の習得や文化の吸収に努め、真の学び家たらしめなければならない、との思いを新たにしている次第である。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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