わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第3章 環境改善の闘い(昭和35~42年)

 22 職員看護完全実施 闘争の記録
            今 井 種 夫

 ハンセン病療養所が開設されて50数年を経た今日まで、不自由者看護を軽症者に行なわせてきた厚生省も、その不合理をようやく認め、昭和35年度より5か年計画で、職員看護に切替えると約束したのである。我々は職員看護に移行されることに大きな喜びと期待をかけ、実施される日を待ち続けていた。しかし、本省は先に約束した最終年度の39年に至るも、全体の3分の1程度の切替えしか行なっていないにもかかわらず、職員看護を打切る考えを明らかにした。
 我々不自由者は本省のこの言明に憤慨し、本省及び施設側に対し強く約束の履行を迫る一方、全患協に対してもその約束を守らせるよう働きかけた。
 こうした情勢の中に、第9回全患協支部長会議が当青松園で開催された。この支部長会議の議題も当然不自由者看護職員切替問題が焦点となり、我々盲人会は会務を中止して、5月13日より17日までの本会議を多数で傍聴した。
 なかでも、不自由者看護職員切替えにからむ「回復者職員採用」の問題が提示されたため、しばしば混乱し、会期を1日延長した程で、一時は全患協の組織の分裂をさえあやぶまれる状態であった。このように混乱、また混乱をひきおこした原因は、九州ブロックでは未だ切替えがなされておらないのに、切替えの進んでいる多磨全生園においては職員の看護要員確保の行きづまりから、5項目の条件を付して、回復者を不自由者の看護に当らせようとする案が提示されたからであった。代表の中にも、公務員の増員とその定員化が困難である、という見解を持つ者も少なくはなかった。我々は、かくして進められてゆく討議の模様を傍聴しながら、言い知れない不安と憤懣の情を抑えきれないものがあった。この論議の帰趨が明日の我々不自由者の看護が安定するか、それとも再び暗い過去の看護状態が継続されるか、いずれかの岐路に立たされていると言える問題であり、一言半句聞きもらすまいと傍聴席に頑張った。全盲連本部をはじめ各支部の盲人会、不自由者団体から、「職員看護完全実施を勝ちとれ」、「回復者職員採用反対」、「回復者所内復帰絶対反対」等の電報が続々入り、会議の進行中次々に披露されていった。傍聴席にいた我々は、この友園からの入電に勇気づけられ、支部長会議に注がれている全国不自由者の切実な訴えの声が聞こえてくるような思いがした。
 我々盲人会では、全盲連本部からの依頼もあり、出席代表及び全患協事務局員を招き、懇談・要請する予定を立て、自治会へその手続きをとっていたのであったが、会議が紛糾したためどうしても会う時間がとれないと知らされ、断念せざるを得ないかとも思った。しかし会議の模様を聞けば聞くほど、なんとしても代表たちに会って、我々の切実な声を聞いてもらわなければならないと痛感し、「不自由者看護問題」、「回復者職員採用問題」の2点にしぼって、是非我々の願いを聞いて頂きたい旨を文書にして、各代表に手渡してもらった。大基総代も共に要請してくれ、幸い16日午後5時半より盲人会館に、全患協事務局員並びに各支部代表全員を迎え、盲人会代表と懇談すゐ機会に恵まれた。これまで全患協は、不自由者看護職員切替えについて、本省に対し積極的に働きかけてくれたことはなく、療養所のあり方からいって、不自由者の看護を職員に切替えることは当然である。園内回復者をこの看護切替えにからませて考えるべきものではなく、別な見地から検討すべき性質のものではないか。先ずこのさい、本省に約束を履行させるため、速やかにこの支部長会議において決議し直接交渉を行なってもらいたいこと。本省が我々の主張を認めない場合には、実力行使として附添放棄、その他起り来る如何なる障害にも耐え、事態のいかんによってはハンストをも辞さないと堅い決意を表明したのであった。
 我々との懇談直後、6時から開かれた小委員会において我々の希望していたような結論が出され、午後9時15分より開かれた本会議に報告された。その内容は、6月上旬、本省に対し切替問題一本にしぼって直接交渉を行なう。第一次行動として、全患協本部員、各支部代表2名、多磨全生園より盲人を含め不自由者50名、駿河療養所より盲人を含め不自由者30名、各支部においては附添作業3分の1放棄。第二次行動として、栗生楽泉園より盲人を含め不自由者25名、中央交渉参加、附添作業3分の2放棄。第三次行動として全面作業放棄。これらの事項を小委員会の報告通り本会議において決定された。
 我々は深夜の傍聴席にこの歴史的な決定を深い感慨のうちに聞いた。代表の中には支部長会議終了後、直ちに上京し、厚生省の政治責任を追求すべしとの強硬論もあったが、結局、会議の連続で出席代表も疲れており、中央交渉を行なうにはやはり準備が必要との全患協本部の希望もあって、6月上旬実施の決定をみたのであった。

   6月1日

 今日は厚生省に対し、全患協議長の名をもって、先に約束した不自由者看護職員切替えを履行しない場合は、実力行使として第一次から第三次までの患者作業放棄をする旨の通告書が提出される日である。
 自治会の総代が、長島、邑久の自治会と6月陳情についての打合わせを行なうため、友園交歓船を利用して行くことになった。我々も通信連絡はとっていたが直接会う必要を感じ、私と賀川君で長島盲人会を訪問した。長島盲人会の事務室には邑久の代表も未ており、皆声馴染みであり、同じ立場におかれている者同士なので心は通じ合い、なんとしても本省の約束を実施させなければという意気込みがみなぎった。全患協支部長会議の決定線を強く支持し、今後の情勢の変化にそなえ、相互に緊密な連絡をとり、同一行動を行なうことを確認。午後2時半盲友達に送られ帰途についた。
 帰園後、6月行動についての当支部の態度をきめる評議員会にのぞんだ。議場において総代から長島、邑久と打合わせてきた報告が行なわれた後、支部長会議で決定された6月行動にともなう作業全面放棄を含む内容は、一般情勢からみて困難性があるのでは………との消極的な意見も出された。そこで我々は、評議員会において既に批准されており、現段階にきて決定線を崩すべきではない、と強く主張した。なお外にも消極論があったが、先の批准通り行動が行なわれることになり、総代を委員長とし、副総代、執行委員3名、評議員会から2名が加わり、計7名によって闘争委員会が設置された。

   6月2日

 昨日厚生省に提出したものと同様の通告書が総代から野島園長に渡された。
 本省の態度いかんによっては、当支部もいよいよ5日を期し実力行使にはいるのだ。私は、生活改善研究委員会を午後1時から開き、長島、邑久盲人会との話し合いの結果を報告すると共に、今後の具体策について委員の意見を求めた。各委員から、会員の協力と団結をかためるために臨時総会を召集すべき………、との意見が一致し、明日臨時総会を開くことに決定した。

   6月3日

 我々の明日の生活にかかわる切実な問題であるだけに、臨時総会に集って来る一人一人の杖の音にも、今こそ立上らなければ………という決意が感じられた。出席者は会員の90パーセントに達し、かってみない出席率をもって張りつめた雰囲気の中に、討議されてゆく質疑にもおのずから力が入った。この運動を是非成功させるためには資金が必要だから会費を臨時徴収してはどうか、との積極的な提案がなされ、誰一人反対する者もなく会費3か月分の臨時徴収をすることを決定し、3時半臨時総会を終った。
 午後4時半の便船で中央交渉に参加する薬師寺、神崎両代表を大勢で激励し見送った。この度の中央交渉は困難が予想されるだけに代表たちの苦労も大変なことであろう。

   6月4日

 会より自治会闘争委員長に、次の5項目の要望書を提出した。
 一、第9回全患協支部長会議において決定されている行動計画を絶対に崩さないようにしてもらいたい。
 一、第一次の附添作業3分の1の放棄を完全に実行してもらいたい。
 一、厚生省、園長、地方医務局長等、各関係者に全入園者の署名を早急に作製し提出してもらいたい。
 一、一般入園者の世論を喚起させるため、園内各所にポスターを張り出してもらいたい。
 一、来園を要請中の四国地方医務局長が来島されない場合は、我々不自由者代表を同伴し陳情させてもらいたい。
 昨夕出発した2名の代表は多磨に到着し、本省との交渉を目前に、どのような戦術が立てられているであろうか。支部長会議で基本線は出されているとはいえ、ある支部では行動に参加しないとの噂も伝わり、一抹の不安におそわれてならない。まず我々の意志を伝えるべく、中央闘争本部と当支部代表あてに激励の第一報をおくった。

   6月5日

 今朝より第一次の附添作業3分の1が放棄された。昨日自治会闘争委員会へ要望しておいた“療養所の体質改善は先ず不自由者看護切替から”等のポスターが園内各所に張り出された。こうしたポスターが道行く人々の目をひき、闘争気運が少しずづ盛り上っていった。
 午後1時半、来園を要請していた四国地方医務局から、局長代理として山川次長外係官が来られたが、「是非局長の来園を求めるべく交渉中で、場合によっては山川次長らと懇談要請するから待機していてほしい」との闘争委員会よりの知らせを受け、結果を待っていると、事情止むなく山川次長らと大島会館で、午後3時半から会うことになった。我々は事前の打合せを行ない、緊張を覚えながら世話係に誘導されて席についた。既に医務局の人々や施設側から園長、事務長、医務課長も出席されていた。まず闘争委員長の挨拶、続いて山川次長より、局長が来園できなかった釈明、そして医務局としても、この不自由者看護職員切替問題について、側面的に出来る限りの協力を致したい旨の挨拶がなされた。我々は盲人の立場から、現在軽症者によって行なわれている看護状態の不合理を指摘し、一日も早く職員看護に切替えてもらえるよう、強く要請した。次長もこの要望を受入れ、山本事務官を直ちに上京さす、局長にも十分皆様の要請を伝える、と約束された。そうしているうちにも、中央闘争本部より度々入電があり、その都度紹介された。「大臣との会見を求むるも全う気配なく、120名坐り込みの態勢にはいる。各支部では第二次作業放棄の準備をせよ」との指令があり、容易ならぬ事態を迎え一同の間には更に緊張が深まった。6時に交渉が終り、盲人会館にひきあげ、中央交渉の緊迫した状勢にどう対処するかについて話し合った。そして、我々のこの切実な要請に対し、小林厚生大臣の誠意のない態度に憤激し、直ちに抗議電と中央闘争本部に激励電を打った。
 昼食をとったまま緊張の連続であった今日もすっかり暮れてしまっていた。急に空腹をおぼえて夕食に帰る。

   6月6日

 午前0時30分、社会党代議士藤原道子氏らの斡旋によって、頑強に会見を拒んでいた大臣と8日代表団が会えることになったが、その前提として5日23時より医務局長と交渉に入る、との電文が早朝の園内スピーカーから報じられた。やっと大臣に会える、との知らせに愁眉をひらいたのも束の間、医務局長が会うことを約束しておきながら、すっぽかしたということから、大臣室前に代表団がとうとう坐りこんだ、との暗い電報が追いかけてはいった。いよいよ事は重大である。この入電に一瞬、待機する生研委員の顔にかげりが走った。しかし、くじけてはならない、今こそ頑張らなければならない、とお互いに励まし合った。一方、療養所の底辺にいる不自由者の結束を痛感し、全盲連本部及び多磨、駿河、長島、邑久の各盲人会に当会の状況を知らせるとともに、相互の結束を求める電報を打った。
 午後1時から、第二次計画の作業放棄についての評議員会が開催され、ある園では第二次作業スト決行の入電もあったが、一部の園などは支部長会議で決定した実力行使も行なわない、との悲観的な噂も流れていた矢先であっただけに、その影響もあって、議員の中には、この第二次計画を当支部だけ忠実に実行しなくてもよいのではないか、という消極論も多かった。だがこの段階に至っては中央闘争本部の指令を実行すべき、との執行部の強い態度によって、第二次作業放棄が決行されることになった。この会議の成行きを気づかって会員多数が傍聴席に討議の模様を見守っていた。会議中にも中央より電報や電話がひんぱんに入り、議場は異様な雰囲気を呈していた。第一次には僅か8名の附添作業放棄だったが、第二次には附添、治療助手など看護関係の作業者を17名引きあげたため、職員の奥さんたちに看護をしてもらっている者の中には、やはり職員の看護はいい、食事も附添ってゆっくり食べさせてもらえるし、こまごまと身の周りのことにも気を配ってくれる、と職員看護の評判はよかった。

   6月7日

 朝食もまだとらない7時半、会員に呼びかけ、急拠桟橋に集ってもらい、四国地方医務局へおもむく園長、事務長に、職員介護切替えを要求して作業放棄に突入した。かかる事態の収拾について、地方医務局の協力を更に要請してもらうことにした。この朝は、これまで見られなかった会員以外の不自由者の人たちも大勢集り、力強く感じた。
 それから、盲人会館の広間に、闘争をかたどり点字台をT字形に置き、中央からの入電に一喜一憂しながら待機していた。また、長島、邑久の状況を聞いて、今後の取り組みをするために電話をした。長島では患者総決起大会を開き、坐りこみ40名、2名のハンストも出た由、邑久では盲人会員が本館前に坐りこもうとしたが阻止されたという。なお、明8日には、西部5園々長が岡山でこの事態収拾のため協議を行なうとのことで、その会議へ瀬戸内3園盲人会の連名で要望書を提出することにした。多磨、駿河の盲人をまじえた不自由者も交渉団に加わり、陳情を行なっている。このきびしい暑さの中で頑張ってくれていることを思うと、じっとしていられない衝動にかられる。留守を守る多磨、駿河の病友も本館前に大挙坐りこみを決行。また長島では高島園長に上京を求める要請がなされている、との情報が次々にもたらされた。
 当園では、盲人会のみが闘争に立上っているような風潮の中に立たされていたが、これまでこの問題に対して全く動きを見せなかった不自由者たちも、この切迫した事態に黙しがたくなったのか、昼の定時放送に、全不自由者の集合を告げていた。その会合は不自由者会結成についての相談であるらしく、集会場に当てられた図書室はつめかけた人たちで入りきれないほどの状態で、不自由者会結成の仮決議が直ちに行なわれたという。この日の来るのを我々は待ち続けていた。これで盲人会のみの孤立した運動ではなく、不自由者会219名を加えた力強い運動に盛上ってきたのである。早速、誕生したばかりの不自由者会新役員を盲人会館に迎え、今後とるべき行動について協議し、お互いに励まし合った。
 夕方、地方医務局から帰られる園長、事務長を待ちうけて盲人会館に来てもらい、自治会闘争委員、不自由者会役員と共に園長の報告を聞き、続いて我々より要請に入った。ある者は、なかば義務的に看護やその他の作業に就かされ、このように手の指もなくなった、とその手を差し出して訴え、ある者は、目までもとられてしまった、と声をふるわせて叫び、2時間半を経過するも要望は止まない。愛生園の高島園長も病友の要請にこたえて上京していることだし、所長連盟の会長である野島園長に、なんとしても明日は上京してもらわなければならない、とこの一点に集中して強く要求した。しかし、園長は禁足令を受けており、上京するにしてもその時期がある。その時期は? と聞くも尚明らかにされず、上京の確約を得られないまま交渉は打切られた。自治会闘争委員が引きあげたのち、不自由者会の役員たちと、明朝8時を期して事務本館前に坐りこむためのプラカードの準備や通告趣意書を作成した。

通 告 趣 意 書

一九六四年六月八日

     盲人会代表     今 井 種 夫
     不自由者会代表   吉 名 照 三

大島青松園々長
 野 島 泰 治 殿

 我々身体不自由者の看護は、現在その一部が職員の手によって看護されておりますが、尚三分の二は軽症な病友の手によって看護されている状態であります。かかる形態は患者が患者を看護する形であり、軽症な病友達が後遺症になやみながら看護している実態は、言いかえるとその病友たちの目をうばい、手足をそこねる結果となっており、共倒れの状態であるとみなしても決して過言でないと思います。その点において厚生省は昭和三十五年度から五か年計画を立てて、身体不自由者の看護を職員に切替えることを確約したのであります。しかるに最終年度に当ります今年に於いて、身体不自由者の看護を職員に切替えることを中止したのであります。我々はここにおいて、本省の違約に対しその責任を追求するとともに、身体不自由者の看護を即時職員に切替えて頂くよう、ここに要請するものであります。
一、不自由者看護職員切替即時実施の事。
一、西部園長会議終了後、直ちに上京し、本省と交渉せられる事。
一、看護要員を確保する事。
一、不自由者看護職員切替に伴なう施設整備費を確保する事。
右通告する。

 明日に備えて引きあげようとしている我々のところへ、自治会闘争委員会から電話がはいった。その連絡によると、戦術として園長が上京しない前に坐りこむことは、上京させない結果を招くおそれがあるので、決定していた午前8時を変更して、園長が出発した正午からが良いのではないか、との相談であった。我々は直ちにこの変更について話し合った結果、この際はやはり闘争委員会の方針に従うことにした。
 夜も更けて寄せてくる潮騒の音が何かさびしく聞こえる。誰一人ゆく人のない闇の道を帰って床に着いたのが11時前であった。またスピーカーから、自治会闘争委員の召集を報じている。寝床にはいるも緊張のせいか疲れきった体は容易に寝つかれない。
 1時頃だったろうか。うとうとと眠りかけていた耳に誰かの呼ぶような声がして、はっと目をさますと、闘争委員会から呼出しに来たのだった。覚めきらない体をよろつかせながら、杖にさぐって闘争委員会へ急ぐ道で副会長の半田君と出逢い、行ってみると既に副会長の賀川君も来ていた。委員会の連中も疲れきった表情ながら、真夜中に召集した訳を告げた。昨夜の話し合いでは、明日正午に坐りこみを決行することにしていたが、園長はどうしても上京をしてもらえそうにないので、予定を変更して明朝8時に坐りこみを決行したら………、との相談であった。我々生活改善研究委員会では8時決行を決めており、別に異論はなかった。しかし、自治会闘争委員の中には坐りこみ決行についてためらう者もいたが、園長に上京してもらうためには、たとえマイナスの面があるにしても、止むを得ない手段であろうという結論になって、散会したのが朝の3時すぎであった。

   6月8日

 深夜打ち合わせた坐りこみ決行を会員に告げるため、午前6時45分臨時放送のマイクに向った。昨夜一睡もしなかったせいもあり、めまいを覚えた。この早朝の放送に皆驚くであろうと思うと、疲れきった体にも緊張を覚えた。今朝8時を期して事務本館前に坐りこみを決行するから、会員は盲人会館に集合されたい旨の放送を終えて、引きあげて来る足どりにはまだ昂奮が残っていた。朝食もそこそこに集まって来る会員、不自由者会の役員たちと今日の行動の打合わせをする。私と賀川君が本館に坐りこみ、半田君と朝君が盲人会館で内外との連絡に当ることになった。不自由者会の人たちは糊をたき、はずした戸板にあわただしくプラカードを張りつけてゆく。定刻の8時は刻々と迫り、集って来る会員たちの声で会館の中は騒然とし、出発を告げる私の声も通らないほどである。
 園長に手渡す通告趣意書を手にして、世話係に誘導されながら出発する私の後に続く、杖の音にまじる不自由者の足音。未だ経験しなかった坐りこみへの列は続く。是非とも職員看護完全実施を勝ちとらなければならない決意が誰の顔にもうかがわれた。後から、「おい、少しゆっくり行けよ」と言う声。昂奮しているせいか、ゆっくり歩いている積りだがつい足が早くなる。我々盲人や不自由者のこのような行動が周囲の目にはどのようにうつっているのか。冷たい視線のあることも意識しながら、軽症者によって看護が行なわれている夫婦不自由寮地帯をすぎ、官舎地区に近い凸凹の道にさしかかった時、誰かつまずいて転んだ。
 目指す本館はすぐそこである。野島園長は我々の行動をどう受け取られるだろうか。平生優しい園長であるだけに相済まない気もする。複雑な思いにかられながら、本館を一周し玄関に近づいた時、窓から「ご苦労さん」と言う声がした。思いがけぬねぎらいの言葉に緊張感がゆるむのを覚えた。さァ何処へ坐りこもうかと思案しているうち、どんどん玄関内に入って行く血気にはやる者たちの自粛を願いながら立っていると、職員の奥村さんが出て来られ、不自由な我々を見て、事務椅子を園長室に続く廊下に次々に並べて坐らせ、風邪をひいて咳こんでいる者にはお湯を持ってきてくれた。坐りこみに来てこのような好意に接し、ほっとした思いで園長の出て来られるのを待った。
 目がほしい、手がほしい、我らに職員の看護を?
 患者が患者を看護することに反対?
 などのプラカードを背にして坐りこんだ者の中には神経痛の頓服を飲ませてもらう者もあり、日夜忙殺されてきた私も急にめまいを感じて廊下に横になって休もうとしたとたん、園長の声が聞こえてあわてて起き上った。そして、大基闘争委員長から通告趣意書が手渡された。園長は私の前に来て、
 「きようは私から皆さんにお願いします。皆さんの切実な要望を本省に伝えるために早速上京させてもらいます。しかし、ここに坐りこまれていては上京することが出来ないので、直ぐ坐りこみを解いてほしい」
 と言われたが、私は、
 「このような行動をとらなければならなかったことを遺憾に患います。本省が約束した看護切替えを実行してくれさえすれば、このような行動を起す必要はなかったのですが、本省に約束を実行させるよう、園長先生に上京してもらって、お願いして頂きたいのであります」
 と要請した。長時間の坐りこみを覚悟してきた我々は、園長が直ちに上京することを約束してくれたので、その目的を達し、坐りこみを解くことになった。本館前は後から後から集まって来た会員や不自由者でうずまっていた。午前10時坐りこみを解き、肩を組みながら引きあげる者、車で帰る者、皆安堵の表情であった。盲人会館では連絡に当っていた半田君、朝君によって、坐りこみの状況を中央闘争本部、大島支部代表、全盲連本部等に打電されていた。
 午後からは、昨夜の園長との交渉の録音を全寮に流し、一般へのアッピールを行なった。
 中央では、厚生大臣に会見を求めて係官と予備折衝が行なわれたが、本省の条件として、「交渉団の人員を制限し、会見後は直ちに解散せよ」との回答であったが、それを拒否し、「直ちに第二次作業放棄を一日延長せよ」との指令が出た。そして、多磨、栗生、駿河から陳情団の増援が送りこまれることになった。中央交渉団は藤原道子氏ら社会党代議士ならびに日患同盟、全医労等の諸団体の斡旋や支援を受けて、なお大臣との会見を要求して頑張っており、我々も大臣に抗議電を打つ一方交渉団に激励電を送った。さらに、交渉団と予備折衝をしていた尾崎医務局長が休憩中雲隠れをしたため、大臣室前に坐りこんだ交渉団に再び退去命令が出された、と聞き、この不当な退去命令に対し大いに憤激し、ハンストをも辞さずと強硬な抗議電を打った。
 私の疲労を心配してくれる副会長の半田、賀川の両君にあとを頼んで休養させてもらうことにし、横になって、不自由者会と連名の打電や、中央その他各支部からの入電がスピーカーから次々に報じられるのを一喜一憂しながら、事態の好転を願っていた。

   6月9日

 大臣との会見を、今か今かと待ち望んで、いた我々のところへ、午前11時より尾崎医務局長と、続いて大臣と会うことになった、との知らせがはいった。大臣折衝に当って我々の意志を伝えるべく、不自由者会と連名で大臣及び関係者に要請電を打った。
 頑なに会見を拒んでいた大臣との折衝が、今行なわれている頃であろうか。時計は正午を打った。厚生省へおもむいた野島園長からの電話連絡によると、各園長もほとんど揃い、本省関係者と事態収拾の話し合いが、全患協中央交渉団とは別個に、行なわれることになり、状況が好転しつつある、との知らせがもたらされた。我々はこの連絡を受けながらも尚不安をぬぐい去ることが出来ず、野島園長に一層の努力を要請する電報を打った。
 大臣との交渉結果を待っている我々の所へ、次のような電報がはいった。
  「十三時ヨリ大臣ニ陳情 十三時三十分終ワル 大臣ノ責任ニオイテ 四十年度カラ早急ニ看護切替エヲ実施スル 三十九年度ニオイテモ政治折衝デ要員ヲ増スタメ大蔵省ニ折衝シタ 実現ニ努カスルトノ回答ヲ得ル 十三時四十分直チニ報告会ヲカネテ坐リコミノ解散式ヲ行ナッタ 支部ハスベテノ実力行使ヲ解ケ 闘争本部」
 この朗報に、待機していた一同は疲れも忘れ、万歳を叫んだ。そしてロぐちに、よかった、ああよかった、本当によかった、と踊りあがらんばかりに喜び合った。
 大臣がどれだけ我々の要求を受け入れてくれるのか。不安はたえずつきまとっていたが、今ようやく我々の主張は認められたのだ。長い間の念願であった不自由者看護職員切替えの完全実施を、本省がついに我々に確約したのだ。不自由な体で闘ってきた要求がここに実を結び、終止符をうったのである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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