わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第3章 環境改善の闘い(昭和35~42年)

 25 全盲連直接陳情をめぐって
            北 島 澄 夫

 全国ハンセン病盲人連合協議会(全盲連)が、厚生省に初めて直接陳情を実施し、厚生大臣、医務局長より最善を尽くすむねの確約をとりつけるなど、運動の歴史に輝く足跡をしるしたのは、昭和41年10月17日であった。
 思えば全盲連にとって厚生省への直接陳情は、10年余の懸案であり、実現のための努力がつづけられてきたが、ようやくここにその門をたたき、ハンセン病盲人の窮状を直接訴えることができたのである。だが反面単独による陳情を希望しながら、結果的には全国ハンセン病患者協議会(全患協)に同行のかたちで実施しなければならなかったこと、そのため本部は決定線を崩したとして窮地に追いこまれたこと、連絡の不徹底から本部と支部の足並が一部乱れたこと等々今後の問題として反省すべき点が幾つか残されたのである。
 全盲連では会員1200余名の権利を守り、福祉の向上を目的に、盲人教養文化費の予算化、不自由者看護職員切替の完全実施等11項目にのぼる既決項目を掲げ、長年運動をつづけている。しかし残念ながら直接陳情優先主義のわが国の政治機構のもとでは、書面陳情などまことに無力で、折角の運動も事態は一向に好転しなかった。こうしたことから会員のなかには運動に封する批判だけでなく、全盲連の不要論まで云々するようになり、このままでは組織の崩壊さえ危惧されるに至ったため、なんとか会員の不満を解消するためにも直接陳情を実施し、問題の早期解決をはかる必要があるとして、全患協に強く求めてやまなかったのである。
 全患協は毎年5月に定期支部長会議をひらき、運動方針や行動計画を組み、情勢に応じて厚生省、大蔵省に直接陳情を行ない、一応の成果を上げている。したがって全盲連も直接陳情をさせてもらいたいというのが要望の主旨である。ところがこの申し入れに対し、全患協は短かい時間の中で両者が同時に陳情を行なうことは、戦術的にもまずい、晴眼者と盲人では行動のテンポが違う、全盲連の要求もかわって充分伝えているなど、いろいろ理由をあげて直接陳情を認めようとしなかった。全患協のこうした態度に、会員のなかには憤慨のあまり、全盲連独自で決行すればよい、憲法にも請願権は保障されている、と言った強硬な意見を吐く者もいたが、全盲連の立場を考え、そうした手段は避けなければならないと、今日まで忍耐づよく要請をつづけてきたのである。
 全盲連の申し入れを頑強に拒んでいた全息協も、予算その他にみられる当局の高姿勢や、情勢のきびしさに対処するには、全患協だけの交渉では、もはや問題の解決はのぞめないとして、東北新生園で聞かれた第10回全患協支部長会議において、今後の情勢に応じては全盲連等の同行も考慮する、との決議がなされた。その後多磨盲人会において支部長会議の報告会がもたれた席上、小泉会長より、全盲連が陳情を行なうなら全患協は全力をあげてこれを支援する、と注目すべき発言があり、それがこの度の直接陳情に発展していったのである。
 当時全盲連は菊池盲人会に本部を置いたまま移管問題その他でゆきづまり、空白状態をつづけていたが、各支部の努力と、本部担当を決意された長島盲人会の熱意によって、問題解決への明るいきざしが見えはじめていた。ともあれ一つの試練を経て、菊池より長島に本部が移管されたのは41年5月5日であった。長島本部は事務引継ぎを終るや、ただちに活動を開始し、当面する問題の分析、具体的な運動のすすめ方など詳細に検討する一方、全盲連の組織強化をはかるためにも、これまでの運動の総決算を行なう意味から、直接陳情が必要であることを確認、各支部の足並みが揃うなら実施にうつしたいとの態度をかためたのであった。
 そこで本部はまず全患協小泉会長に質問状を提出し、全盲連が陳情を行なう場合の取扱い、その他について回答を求めた。これに対し小泉会長より、全患協本部見解というかたちで次の回答が示されたのである。
 全患協本部見解
  (①、②省略)
③、以上の観点から考えて、全患協の機関構成メンバーだけによる陳情や、交渉にとどまるのでなく、同じ要求をもつ者が出来るだけ幅広く当局に訴えるという形は、組織活動の上からも、あるいは当局の認識を深めさせる意味からも、当然実施されてしかるべきではないかと考える次第です。
④、但し、全患協の機関構成メンバー以外の陳情その他が実施される場合においては、次の事柄が完全に処理された上でのことでなければならないと考えます。
 イ、陳情その他の行動を行なおうとする団体、若しくは個人においては、それらの人達の所属する全患協支部、更に、支部長と充分に話し合い、諒承を得ることが必要である。
 ロ、陳情の内容については、全患協の機関決定の枠内にとどめる事が原則とされ、それ以外のものを持ち出すときは、イ項の話合いの中で確認されなければならない。
 ハ、行動のために必要な経費については、全患協会計からの支出は困難であり、当該団体若しくは個人の負担とせざるを得ない。
 以上の手続きを経て陳情が実施される場合、全患協本部としては全面的に支援する方針であります。(後略)
 全盲連本部ではこの見解のなかで示された3つの条件を検討の結果、その線にそって実施する方針をきめ、第45回臨時書面会議を開催、本件を討議に附したのである。
 全盲連単独陳情実施に関する件(本部提案)
1、直接陳情は全盲連単独で実施し、基地は多磨支部に置く。
2、構成人員は本部2名、多磨支部3名の計5名とする。(付添5名)
3、経費は全額本部会計より支出し、陳情の後予算をオーバーした金額については、会員の均等割で臨時会費を徴収しこれに当てる。
4、陳情実施期日は、10月中、下旬を目標とし、情勢を勘案して行動日程を決定する。
 この書面会議の結果は、全支部賛成をもって原案を可決。ここに全盲連として単独陳情の実施を決定したのであった。
 さて本部の適確な情勢判断と指導力、それに客観情勢も全盲連に幸いし、ここまでは順当にすすめてこられたが、難関は各支部自治会の諒承をとりつけることであった。当支部でも公式文書をもって全盲連単独陳情実施に関する承認を自治会会長に求めた。自治会では検討の結果、事情は諒解できるが全患協本部回答は正式な書面会議のルールをふんでおらず、認めるわけにはいかないとの返事であった。そこで自治会と直接膝をまじえて説明を行ない、再度要請したところ、趣旨を諒解され評議員会に上提されることに決ったわけである。
 全盲連の単独陳情是か非かを問う評議員会が召集されたのは9月16日であった。この討議には私と賀川君が議員としてのぞんだが、果して本件の審議にはいるや、全盲連の問題であり、事情に詳しいだろうということで私の方に質問の矢が集中した。その主なものは、直接陳情の必要性、単独によらなければならない決定的な理由などであった。それに対して前段でのべたことを説明し、賛意が得られるようにつとめたが、私たちの期待もむなしく、単独陳情を支持してくれる意見は得られず、ただわずかに全患協と同行であれば認めてもよいという意見が2、3あるに過ぎなかった。理由としては、全盲連にそれを許した場合他の団体、例えば全国作業従事者会、外国人ハンセン病同盟あたりから同様の申し出が出てくることも予想される。そうして各団体が単独で陳情し、勝手な要求や行動をとれば、もはや組織の統一は保たれず、全患協の運動路線にも影響を及ぼすことになる。したがって単独陳情は認めるわけにはいかないというものであった。この意見に私たちはあくまでも単独陳情を認めるべきであると、主張してゆずらなかった。全盲連は全患協本部見解のなかで示された3つの条件を守り、行動することを申し合せており、機関決定の枠よりはみ出すおそれはないと反論、長時間にわたり賛否両論がたたかわされた結果、各議員もようやく全盲連の立場を諒解され、暫定的に認めるとの附帯条件を附して、全盲連単独陳情実施に関する件が、自治会の評議員会を通過したのである。
 それから1か月後の10月13日、駿河療養所において第13回全患協支部長会議が開かれ、「将来の療養所像」の答申案を討議することになっていた。また全盲連単独陳情の最終決定も、この会議においてなされるということを知り、一層大きな関心をはらっていたのである。そんなところへ本部の堀川事務局長から私に電話がかかってきた。話の内容は期待に反し、単独陳情の件は支部長会議において深夜まで討議されたが、結局単独は認められず、全患協に同行というかたちで承認されたとの通告があった。本部ではただちに会議を開き、この全患協の決定を受け入れるべきか、拒否すべきか討議中であるが、いまだ結論にいたらず、大島支部の意見を聞きたいというものであった。単独陳情については、11支部のうち7支部までが自治会の諒承を得たと報告されており、したがって承認されるのは最早時間の問題と考えていた。それがこのような結果となって出てきたことに、憤激をおぼえずにはいられなかった。だが、今それを言ってみてもしかたがないので、私は求められるままに私見として、全盲連の決定線より一歩後退することになるが、まず直接陳情を実現させることにウェートをおき、同行を受け入れるべきではないか、尚役員会を開き検討の上、回答することを伝えて電話を切った。
 早速役員会を開きいろいろな角度から検討を行なったが、やはり結論は同行も止むを得ないということになった。基本的にはあくまでも単独でなければならないが、同行を拒否した場合の影響を考え、陳情の時間を少しでも多くもらうことを条件に、全患協の決定にしたがわざるを得ないという支部意見を、本部に連絡したのである。その頃本部でも同行を受け入れる方向にかたまりつつあったようで、期せずして意見の一致をみたことから、本部は同行に踏みきることを決意し、その旨をただちに全患協に回答するとともに、全盲連各支部に対し、決定変更の諒解を求めるための電報が打たれた。このようにして全盲連の単独陳情は最終段階において、一歩後退し同行陳情に落ち着いたわけである。
 10月17日、全患協と全盲連の陳情団は予定通り行動を起こし、日比谷公園に集結、午後2時より厚生省において生活処遇の改善、医療看護の充実、盲人教養文化費及び盲導施設整備費の予算化、ほかの要求を掲げて交渉に入った。だが当局の態度に誠意がみられず、ついに4日間にわたる坐りこみの実力行使に突入したのであった。この間全患協、全盲連の交渉団より、あいついで、回答が不満なため再度交渉を申し入れたとの入電があり、支部からも厚生大臣、医務局長、療養所課長に、
 「われら盲人の陳情に対し、誠意ある回答示されたし」
 の要請電を打ち、又交渉団に対しては、
 「大臣、局長、課長に電した、支部の士気さかん、要求かちとるまで頑張れ」
 の激励電を打った。
 10月18日は各支部より、本館前に坐りこむ、決起大会ひらく、といった入電がつづき、政府当局の不誠意に抗議する各支部の動きも激化していった。当支部でもかさねて大臣、局長に、
 「本省の態度憤激にたえず我らの代表に会い誠意示せ」
 の抗議電を打った。
 10月19日、この日が交渉のやま場とみられ、当支部でも四国地方医務局交渉並びに施設交渉がもたれた。同じ頃中央においても交渉団のねばリ強い折衝と、関係代議士、友好団体等の支援が効を奏し、事態は少しずつ妥結の方向にむかって動いていた。そして夕刻中央交渉団より次の入電があった。
 「医務局次長との交渉により、20日午前10時、大臣、局長と交渉することに決定、交渉代表は15名、残りは坐りこみを解き、多磨全生園にひき上げる、支部も闘争態勢を解け」
 明くる10月20日、この日青松園の空は高く澄み、まったく素晴らしい日本晴であったが、更にその印象を強くしたのは全盲連代表からの電報であった。
 「教養文化費、盲導鈴費、不自由者慰安金見通しついた。盲人手当は42年誠意をもって検討すると確約、あと文」
 この入電を最後に、全盲連にとって忘れることのできない直接陳情は、ようやくその幕を閉じたのであった。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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