わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

目次 Top


第1部 光を求めて

 第4章 飛 躍(昭和43~50年)

 29 ラジオと私
            藤 田 英 夫

 私がラジオを好んで聴くようになったのは、昭和23年頃、目を悪くしてからで、その頃はまだ個人でラジオを持っている者はなく、ただ各寮に取り付けられた園内放送用のスピーカーを通して流される、朝と晩の番組と、あき室を利用してのラジオ室に1台あるだけでした。朝と晩は園内放送のラジオを聴き、昼は治療の帰りなどによくラジオ室に寄ってラジオを聴いたものです。その後、不自由寮2部屋に対して1台のラジオが支給されました。しかし、これは2部屋で15日間ずつ交替で聴くという不便さもあり、また共同のラジオは、いつでも自由に自分の好きな番組を聴けないので、自由に聴ける自分のラジオが欲しいものだと思い、ラジオにくわしい中島君に頼んで鉱石ラジオを組立ててもらいました。そのうちに、園内でも個人でラジオを所有することが許されるようになり、私も中古品を手に入れ、これでいつでも自由にラジオを聴いて楽しむことが出来るようになりました。
 やがてトランジスターが発明され、小型化の時代となりました。私も小遣いをためてトランジスターラジオを購入しました。そして寝床にラジオを持ちこんで聴く習慣がつきました。FM放送が始まるようになった昭和42年の末、盲人教養文化費によってFM付のトランジスターラジオが貸与されました。これで2台のラジオを一緒に聴いて楽しむことが出来るようになり、喜んでおります。
 私がラジオを聴いてきたこの20年の間に、放送の世界も大きく変り、NHKだけでなく、民間放送も出来、さらにテレビ放送が始まり、通信衛星が打ち上げられて、宇宙中継で海外からの放送が国内放送と同じくらいに、はっきりと聴こえるようになりました。昨年は人類初の月着陸という驚異的な出来事も、手にとるように聴くことができました。
 私にとってラジオは、社会に向って開かれた窓であり、ただ聴いて楽しむだけでなく、新しい知識と教養をも与えてくれます。激しく移り変る時代にあって、早く老いぼれることのないように、ラジオを活用してゆきたいと思います。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


Copyright ©2008 大島青松園盲人会, All Rights Reserved.