わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第4章 飛 躍(昭和43~50年)

 31 拠出制障害年金への移行
            

   (1)島 田   茂

 最近の療養所は同じ釜の飯を食い、医療を受けながらなぜこうも経済的格差が生じてきたのであろうか。社会保障国を自認している政治のもとに運営されている国立療養所に人所している者の一人として、この矛盾をどう理解すればよいのであろうか。
 障害福祉年金制度が施行され、その恩恵に浴するようになったのは昭和34年で、私も手の障害によって、その年金を受けてきた。ところが39年、失明という恩いもよらぬ事態に遭遇し、精神的苦痛や、生活面の不自由さは筆舌に尽くしがたいものとなった。加えて出費も目の見えていたときとは比較にならない程の負担となって、私の上にのしかかってきた。
 41年国民年金法が一部改正され私たちにも拠出制障害年金が適用されるようになった。これまで福祉年金を受けていた者は当然この拠出制障害年金に移行されるものと思っていた。拠出制障害年金には一級、二級の制度があり、これまで以上の恩恵を受けられるものと信じていたのである。しかし42年3月、発表された第一回拠出制障害年金の認定者は6名で、重度の複合障害をもつ盲人は僅か2名という予想外のものであった。すったもんだの揚句に行なわれた第二次診察において、私も25名の中に入ったことは、救われたようでもあり、私以上に障害度の重い仲間のことを思うと何とも言えない複雑な気持であった。
 会員の多くは福祉年金を受けるときの障害が目の疾患であったため、その他の障害はすべてライに起因するという理由で、私とは逆の立場に置かれたのであった。
 会員82名中、過半数は年齢的に障害年金の適用外におかれており、また該当者の殆どは失明の上に外科、内科、耳鼻科等の疾患をもっている者ばかりである。その同じ苦痛を昧わっている者の一人として、受けている年金に格差のあることは堪えられない恩いである。
 こうした矛盾について、私たちの実情を熟知されている認定医の先生方は、どのように考えておられるのであろうか。私たち盲人や肢体不自由者に、血の通った診断を行ない、一人でも多く拠出制障害年金に移行してもらいたいものである。

   (2)南 部  剛

 拠出制障害年金への第一次診察が行なわれて以来、この問題が私たちの大きな関心の的となってきました。
 そこで盲人会においても年金獲得委員会が設けられ、私も委員の一人として、認定医である先生方の説明を聞いているうちに、先生の間にも法の解釈について多少のくい違いがあるように感じました。従って認定をする立場と、受ける立場とではその解釈にくい違いの生じるのも当然なことと思いました。
 第一次に6名が、第二次に25名が認定されましたが、残された人たちの殆どは二重、三重の重度障害をもっており、速やかに拠出制年金へ移行されることを待ちのぞんでいます。
 私は昭和37年11月22日に入所し、初診日がその日になっております。また入所するまで国民年金に加入し、一年余り掛け金を納めておりました。それにもかかわらず、法の無知から何の疑問も持たず障害福祉年金を受けてしまいました。その後拠出制年金が大きくとりあげられるようになり、年金法を学んでいるうちに、はじめて私の失敗に気づいたのでした。当然拠出制障害年金が受けられるところを、みずから権利を放棄した結果になったのです。
いまさら誰を責めるわけでもありませんが、年金獲得運動を機に、一人一人が法の知識を身につけるようにしたいものです。
 国民福祉の精神のもとに作られた年金法ですから、それを生かし、一人でも多くの者を認定していただきたいものです。法は人によって定められ、それを運用するのも人ですから、解釈によっては血の通ったあたたかいものになるのではないでしょうか。これまで懇談会の席上、認定医の先生方は、「あなた方の実情はよく分ります。期待に添うよう努力します」と言って下さった理解あるお気持で、第三次、第四次の診断に当って下さいますようお願いいたします。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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