わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第5章 明日へ向かって(昭和51~57年)

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盲人世話係の職員化            北 島 澄 夫

 今年は国際障害者年に当り、障害者のかかえるいろいろな問題や福祉が見直されようとしている。この意義ある年に、盲人会でも、20数年来交流の場として、憩いの家として、運動の拠点として活用して来た盲人会館が、藤楓協会の斡旋によって再建されることになっている。
 このように、私たちにもようやく安定と充実の日々が訪ずれようとしているが、唯ひとつ気がかりな点は、目となり手足となって働いてくれる盲人世話係の雇用が、年々困難になりつつあることである。
 創立以来、会の後援団体であった青年団、婦人会が29年に相次いで解散し、それに代わり、作業制度によって盲人世話係2名が配置された。その後会務の繁雑につれて増員され、現在定員4名となっている。
 参考までに盲人世話係の作業従事者心得を紹介すると、
 1、世話係は盲人会々長と連絡をはかり勤務する
 2、3、4、 (省略)
 5、代筆代読及び点字図書、テープ図書の貸出し業務を行なう
 6、通信、連絡に関する事務を執る
 7、定期的に寮廻りを行ない、会員の杖、靴等に名札をつける
 8、会及び各グループの備品、記録その他の管理保管に当る
 9、来客その他特別な場合の用務をする
 10、ガスの後じまい及び火気に留意する
 11、会館内外を掃除し、15日、月末に窓ガラスを拭く
となっている。
 私が盲人会に入会したのは32年であるが、その頃世話係は2名で、日曜祭日を除き毎日午前午後と出動していた。当時はまだ盲人会館もなく、機関誌「灯台」のガリ切り・印刷、点字講習会、川柳句会、音楽民謡の練習など、各グループ活動も盛んで、その準備や介助にも当らなければならず、世話係の業務はなかなか大変なものだったと思うが、雇用については何の不安も感じなかった。
 園内作業に深刻な彭響か出始めたのは確か46年頃からであったと記憶している。ハンセン病療養者にも拠出制障害年金が適用されたことによって経済状態が安定し、旅行に出かける者や自分の趣味に没頭する者、また老齢化による健康の低下から作業意欲の減退を招いたことなどが主な原因であろう。ここに至り全患協は、管理作業返還を討議する第6回全国代表者会議を48年2月大島において開き、管理作業全面返還の基本線を打ち出した。しかし実施は受入れ側の準備もあり、49年度からとなった。
 この決定をふまえ、当園でも大洗濯、不自由者附添、治療助手、食事運搬など、作業者の忌避する職種から逐次返還し、今日までに17種目45名が返還され、その切替要員として賃金職員38名の示達を受けている。盲人会では出来る限り軽症者による世話係を希望し、返還を後まわしにしてもらってきたのであった。
 全盲連においては54年の書面会議で、盲人世話係の職員切替えを討議し、1支部職員2名、会員50名をこえる毎に1名増員を決定した。それに基き各支部は、一部または全部を職員に切替えており、全く職員世話係のいない支部は長島、松丘、そして大島だけとなっている。
 幸い当盲人会は周囲の理解もあり、比較的世話係に恵まれていたが、その人たちも次第に作業が出来なくなり、この1、2年は限られた作業者の協力により、辛うじて定員を確保してきた。ところが、そのうちの1人が都合でしばらく来られなくなり、予備要員零という大変な窮地に追いこまれたのである。そのため盲人会では、年度初めに行われる自治会幹部との懇談の席で、この問題を取りあげ、「誰か1人病気になるか、外出でもすれば、たちまち定員を割り、事務処理に支障を来たすばかりか、他の世話係にも負担がかかることになる。早急に職員世話係を1名付けてもらいたい………」と、強く要請したのである。これに対し自治会でも実状を理解され、職員化に努めることを確約されたのである。従って一応職員化への道は聞かれたが、問題は、当園が島しょ療養所で通勤の使が悪く、雇用が困難なこと、盲人会の世話係は読み書きが出来、何でもこなせる人でなければ勤まらないかのように誤解されているとである。
 確かに盲人会の業務は多少複雑ではあるが、それも馴れるまでの間で、職員に切替えた友園盲人会の話を聞いても、初めは会館の掃除や会員の誘導介助、お茶くみなどをしてもらっているうちに、職場の雰囲気にもとけこみ、仕事の内容も分って、今では楽しく慟いておられるようである。もちろん私たち会員も、初めから余り多くを期待せず、まず馴れてもらうことが第一で、温く見守ってゆく姿勢が必要であろう。また園当局においても、職員を付けたから直ちにこちらの作業者を減員するといった考えでなく、将来の全面切替えに備えて、職員世話係を育てるという視点に立った配慮を望みたいものである。
 現在の定員4名は、仕事の量からみて決して十分とは言えない。更に新しい盲人会館が建ち、職員が世話係として勤めてもらえるようになれば、居室にこもりがちだった会員も大勢会館に集って来るものと思う。そうなれば、グループ活動も一層活発になり、親睦会や来客との懇談など、会の行事もさかんに行なわれ、ますます介肋その他に、多くの人手を必要とすることはいうまでもない。
 以上述べてきた如く、盲人会の窮状を打開するために、世話係の職員化を開係者につよく求めてやまないものである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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