閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第四章
 諸行無常

 11 みどりの松がうらめしい(昭和19、20年)

 昭和19年の夏は天候が不順で旱天(かんてん)がつづき、山畑は乾いて作物が萎れはじめた。大切な食糧だから、耕作者は枯らすまいと必死であった。毎日療舎の間の下水槽から、下水を担桶(たご)で担ぎ上げてかけた。汗を流して山坂をヨチヨチ担ぎ上げる姿に、会う者は「ご苦労さん」と声をかけた。1コの卜マト、1本のきゅうり、いまはみな全部の病友の共有である。あまいぜんざいを腹一杯食ってから死にたいと話した。話題はすべて食べ物ばかり。西海岸からバケツに一杯貝を掘ってきて貝飯を炊き、生卵をかけて食ってうまかった話。決してゆたかでなかった過去を夢見て、みな空腹に堪えた。
 真空管がいたみ所内ラジオが聞かれなくなり、所内放送もまた不可能である。この大切な時期にと、戦況の聞かれないのを残念がった。7月1日、皇太后様の御還暦奉祝式があった。園長はその式辞のなかで、25日には東京で全国療養所長会議があり、ために当日式の行なえなかったわけを述べ、次の話を伝えた。
  一、   各面で時節柄、機関誌を休刊するらしいから「藻汐草」も休刊するしかあるまい。
  二、   大宮御所に伺候して先年いただいた菴羅樹に沢山の実のなったことを申上げると、陛下は御満悦の様子に拝された。
 この日協和会では陛下の御還暦をお祝いし、60歳以上の男女73名に園内産馬鈴薯を特配した。
 旱天つづきに蝿がふえて困り、人事部は100匹3銭で買上げることにした。腐った魚を餌におびきよせ、待ち構えて叩く者も出た。飯の量が減りラジオは故障、次は節電で隔日給水となった。汲みおき用の水がめが急に倍の大きさになるわけがなく、結局は1日分が2日分である。翌日の昼すぎには水がめは空になり、炊事当番は担い棒の前後にバケツをぶらさげ、北海道の山裾の一番塩分の少ない井戸まで汲みに行った。
 所内ラジオは聞かれなくても、少年少女室にラジオがある。そのラジオが東条内閣の総辞職を告げた。東条首相を偉大な戦争指導者と考えていた連中はシュンとなった。理由は不明だが、具合が悪いのにきまっている。7月23日に小磯内閣が誕生、空襲警報はしばしば発令され、うなるような独特の爆音をひびかせて、B29が朝から高空を過ぎた。白い飛行雲を見る日もあった。警報発令と同時に総代以下全員協和会詰所につめ、連合奉仕団員は警備についた。夜間に便所の電気のもれる部屋があり、早速注意された。今後このようなことがあれば、配給物を停止するーー。どんな制裁よりもこれは効いた。配給物停止はいのちに関わる。米機動部隊がグアム島に上陸し、わが軍と激戦中。協和会は防空壕設置を総代に上申した。
 「ここがらい療養所であるくらい、向こうさまは知ってらあ。爆弾を落としたって元が取れん」
 そんなにうそぶいて防空壕掘りに気乗りしない者もいた。腹のすくのがいやなのである。幸い大島の居住地域の西側は、山を削り取った崖が、南北に白い地膚を見せて横たわる。連合奉仕団の手で毎日、その急斜面の崖下に横穴式の壕を掘り進んだ。土質は花崗岩の風化したマサ土で、固くて掘るのは辛いが壕内の支え木はなくても天井の落ちる心配はなかった。山上までは余程の厚みであるが、ときにツルハシの先に松の木の毛根が見られた。生きる力の偉大さ、だから松は少々の旱天では萎れない。
 下駄の支給がなく、少年少女は藁草履(わらぞうり)を作ることになった。わらといってはないから、精米所の空俵をもらった。無邪気なかれらは面白がって空俵をといて打ち、教えられる通りに草履を編んだ。
 5年前の園長との約束である耕作権回収費1250円 毎年250円ずつの慰籍会からの支出が5年目の満期を迎え、最後の250円が下付された。不足分は協和会々計から支出し、残る耕作権全部買上げた(9月1日)1652円75銭、坪数約一町であった。
 夏のひでりで秋作の出来が遅れていた。人々は甘藷の葉を茹でて食ったりしていた。なかなかうまいという話である。野菜のつなぎとして耕作者に摘んで出してもらい、炊事場で初めて浸しにして昼食の菜とした。舌ざわりはズルズルするが案外うまかった。すると翌日下痢患者が出てあわてた。先年の赤痢騒ぎに懲りている。医局に協力して早速隔離病棟を設けて防疫に努めた。幸い赤痢でなくて安心した。ところがこんどは1日に5名の死者が出てみなをびっくりさせた(9月3日)。いままでにも1日3人の死亡はあったが、5人は初めてである。火葬場のカマの冷えるのが待てず、朝晩告別式をして荼毘(だび)にふした。
 侍望の新しい真空管が届き、5ヵ月ぶりに所内ラジオがものを言い出した。これで居ながらにして聞けるとよろこぶと、米軍の沖縄空襲、レイテ島上陸とつづき、B29による東京の空襲が報じられた(11月24日)。えらいことになった、戦争はどうなるのかーー。
 12日1日からは燃料の重油現制で、高松大島間の運航は奇数日だけとなり、食事は半麦飯から藷(いも)飯に代わった。分量はそれまでと同じ1食65匁(240㌘) 一合飯である。食っても満腹感がなく、すぐまた何かを腹に入れたかった。燃料の石炭節約で5日に1回の入浴となった。この19年は死者92名、14%と最高を記録するに至った。

 空腹で25貫の薪木が担ぎ上げられないと言い出し、1日2遺体の火葬に限り、2名の火葬人に一食分の飯の特配となった。昭和20年(1945)のこの新春は近来にない冷え込みで、朝々の水道や場所によっては井戸の揚水ポンプも凍結した。山裏の海岸に鯛の浮いた昭和11年以来の冷えである。鯛は浮かなかった。瀬戸内海は温暖で潮風は冷たくても霜はほとんど降らず、氷をみるのはまれであった。寒中でさえ部屋の軒下では、ゼラニュームが紅い花をつけていた。それが夏のかんばつ冬のこの寒さ、気候まで狂った。南の空にポンポン大砲を打ち上げるせいだろう。
 養豚が閉鎖ときまった。昭和6年以来、協和会の重要な収入源であり、病友の胃袋を養ってきた。その豚の餌の残飯がなくて飼えなくなった。人間の餌のない時世に、外部から豚の餌料の入るわけがない。八方手を尽くしたあげくの果ての処置である。残りの豚を屠殺(とさつ)し、その肉を561人に1人あて27匁(100㌘強)最後の慰安配給とし、骨は翌日の汁のダシとして炊事場へ提出した。豚よ、ほんとに長い間ありがとう。勝手なようだが、心からお礼をいってやりたかった。
 園当局からの下駄の配給はとても望めず、先ごろから園内の下駄屋さんと大工さんに、松木を挽いて下駄を造ってもらった。その下駄の数がそろい、鼻緒を買ってもらって添え、363足まず支給した(2月11日)。杉下駄とちがって重いが長持ちした北山謙三氏が死去し、準協和会葬として告別式が営まれた(2月17日)。昭和六年当時の総代で、その後も総代や顧問を歴任した、功労者の一人である。病気が重って不自由になり、病室に入っていた。42歳であった。
 米軍が硫黄島に上陸したとか。いきなり空襲警報が発令された。けたたましい爆音が大気を裂き、敵機が14、5機編隊を組み、庵治との海峡上空を東進する。初めて退避命令が出、警鐘が鳴った。空母からの艦載機だと物知りが叫んだ。まさか敵の空母が瀬戸内海までは入るまい。すると土佐冲に来ているのか。またたくまに東の空に消えた。日本の飛行機は姿を見せなかった。北山氏につづき、上本隆重氏が亡くなった(3月3日)。上本氏もまた功労者で準協和会葬となった。改革運動当時の副委員長であり、その後も委員長や総代を何回も務めた。北山氏同様弱くなっていたから、この春の寒さがこたえたのだろう。48歳。

 東京がまた空襲され、そうとうやられたらしいうわさである。三浦氏互助金を支給した。41名1人あたり1円46銭であった。戦時下であり、たびたびの空襲警報に備えて特に不自由な者以外、いつからともなく男はズボン、女はもんぺ姿に変わった。和服より身動きしやすかった。当局から支給されたわけでなく、全部の者が自分で何とか工面した。こんどは防空頭巾が必要となり、とりあえず100人分縫ってもらって支給した。女たちはみな古着をといて自分や夫や知人のを縫った。先の尖った三角形の綿の入った防空頭巾は暖かである。朝から空襲警報が発令されると治療室は休みとなり、出歩かないようとの注意である。不自由な者の中には連合奉仕団の掘った防空壕へ避難する者もいたが、敵機が頭上に飛来しているわけではなく、いつもと変わらず外をウロウロする者もいた。
 古着の交換市がときどき聞かれた。米軍を迎え撃って激戦中を伝えられた硫黄島のわが軍が玉砕した(3月21日)。園長は所内放送して600人はいれる横穴式防空壕を至急構築するよう、その筋からの指令である。どうか協力して下さいとの話である。奉仕団は西側の山の崖下に二号三号四号と防空壕を掘り進んだ。米軍の沖縄上陸が伝えられ、その急迫した中で作業の割当てを行なった(月末と14日の月2回)
  総人員 561名
   普通室326名 特定室235名
   作業数197 作業希望者179名
 作業が18あまったが、これは二重に割りつけてすませた。作業だけはどんなときにも欠かせない。無くては療養生活に事欠ぐものばかりである。
 園長の放送以来、着手していた協和会詰所の防空壕が完成した。南側の松の木の下で、深く掘ると湧き水が出るため浅かった。トントンと2つ3つ階段を下りると、内が左右に広がった。頭のつかえる天井の低い掩蓋壕(えんがいごう)で、もし直撃弾を受けたらひとたまりもない。何だか義理に迫られて掘った感じである。こんな防空壕へ入るより、逃げた方が安全だとささやき合った。実際に爆弾が落ち出したら、救護どころであるまい。現に防空訓練時には顔を出した職員も、空襲警報時に見回ったためしがない。何処へ逃げてどう対処すると、確たる手段があるわけではない。そのときはそのときだと、大多数の者が不確かな気持ちで空頼みした。たぶん大丈夫であろうとーー。
 ドイツのヒットラーが敗戦の責を負うて自殺した(4月30日)、四国管区の命令で山上に防空監視哨と機雷監視哨をつくり、奉仕団員が昼夜交替で見張った。戦場がだんだん身辺におよび、本土決戦が現実となってきた。大豆入り御飯の試食があり、玄米食同様歯の悪い者が難儀した。
 6月1日から前年通り、蝿の買上げが始まった。100匹3銭は安すぎる、上げてくれなきゃ、とぼやく者がいた。塩が入らなくなり、海水を汲んできて野菜をゆでたり、煮たりした。白菜の白い茎のもつ甘味を発見して驚いた。食える物なら何でも食った。草まで海水でゆでて食った。果樹を倒して腹の足しになる作物に切り替えた果樹園や、農耕地からの収穫物、青菜に大根馬鈴薯に南瓜、きゅうりにトマト茄子菜豆、すべて殖産部へ供出し、炊事場に出した残りは余さず配給した。その度に歓声が上がった。
 協和会は自家製塩を始めた。図書室の東側の防波堤内にカマドを築き、鹹水(かんすい)を採るためのコンクリートの流水設備をした。何回もゆるやかに海水を流して天日で蒸発させ、より濃厚な鹹水にした。次は漬物がなくなり菜代わりに1人あて塩2匁、1ヵ月60匁(225㌘)と、タ食の菜に味噌1回10匁(37・5㌘)が支給された。松の新芽が伸びて黄色な花粉の散る6月末である。来島者は静かな島のみどり輝く松を愛で、まるで極楽のようだといった。
 「この松のみどりが腹の足しになるといいですね」
 憎まれ口の一つもたたきたくなった。
 朝起きると岡山が空襲され燃えているという。ゆうべの空襲警報が思い出される。山に駈け上がってみると、豊島の波方にもうもうと黒煙が上がった(6月29日)。すでに敵機の影はなく、あまりにも静かな朝空である。毎夜の警報発令で安眠などしていられない。7月4日の朝3時、高松が空襲されている!と叫んで駈けてゆく足音がする。飛び起きると暗闇を西海岸へ走る者、山へ駈け上がる者。医局から病室へ退避命令が出た。西の空は真っ赤である。紫色の黒煙が夜空を焦がし、女木、男木の両島が黒々と浮く。爆撃されて炎上する高松を見んものと、山も海岸も暗夜の松下に人が立つ。ドドーン、ドドーンと腸にひびく爆弾の作裂音。閃光のきらめく度に松の梢が浮き上がる。曳光弾が虹を描いて飛び、照明弾は花火。
 ヒューン、ヒューンと敵機が次々に大気を裂いて急降下し、曲線を描いて急上昇する。火の粉が舞い上がり火柱が立つ。人々が逃げまどい人々が死に、高松が潰滅すると思えない豪華な光と炎の一大饗宴である。しばらくすると東の空が白んだ。そのうす明かりに見る高松の空高く、B29が数機ゆうゆうと旋回した。

 余燼のくすぶるその日から、青松園の医者や看護婦は戦災高松の救援に動員された。というて医者は召集されて何人もいるわけではない。高橋(竹代)、林(林夫人、富美子)の2人の女医が診療にあたり、それを病身の林医官が手伝う現状である。診療を留守にするわけにいかないから2人の女医が残り、園長と林医官が高松に急行した。園の所有船、楓丸と松風丸は港の桟橋に繋留中、無残にも炎上していた。
  灰燼の町は果てなし雲の峯
  胡瓜かじり戦火の町に生きてゐし
 そのときの林医官の句である。
 園内産馬鈴薯が1人300匁(約1㌔強)全員に配給された。海水を汲んできてゆで上げると、ちようど塩加減がよかった。永年お世話になった高松市民が戦災にあっている。許されるものなら、わずかの馬鈴薯でも持って行ってあげたい気持ちであった。
 突然、燃料の石炭がないから、各室で自炊してくれといってきた。石炭が一夜に消えて無くなるわけがない。あまりにも一方的通知なので、総代は園長に抗議した。園長は弁明に努め、みなが納得するよう放送することになった。するとその日ラジオは広島に新型の爆弾投下を伝えた。詳しい説明がなく新型というからには、従来の爆弾とは違うのだろう。
 総代は自炊の件に関する園長の放送が、あまりにも我田引水であったため、晩の7時のニュースの終わるのを待って協和会詰所から放送の仕直しをした。いままで心配して何回もお願いし、大丈夫だと言いつづけてきた□の下から、急に一方的な自炊通知は無責任すぎる。事ここに至っては仕方ないから、3日間の自炊に協力してほしい。二度とこんな無責任なことはしてもらわないようにするとーー。
 現物でもらって炊いて食べるその3日間の自炊の2日目にソ連の対日宣戦が報じられた。3日目にはボイラーの掃除で、さらに自炊が2日間延長された。この日、長崎に広島と同じ新型爆弾が投下された。
 乾き切った暑くて重苦しい日がつづいた。8月15日も朝からどんよりした風のない暑い日であった。ラジオは正午から重大放送があると、変に重々しい口調で繰返し予告した。
 それが天皇の放送であった。電波管制でガーガー雑音がはいり、とても聞きとれなかったが「ポツダム宣言を受諾し」と、そこだけは間きとれた。無条件降伏なのである。600の病友はこの一瞬、たちまちすべてを失って虚脱の深淵に陥没した。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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