閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第五章
 欠乏のとき

 12 欠乏とのたたかい(昭和20~23年)

 長い戦いは終わったが欠乏とのたたかいは続いた。食糧難はいっそう厳しくなり、ひもじさから、一すくいの飯にもお互いにいじましい目を光らせあわねばならなかった。20年の食費は1日1人当り43銭、金鵄1個分23銭だったから金鶏2個分に足りない額だ。とても人なみな食費とはいえない。1日1回、副食代りとしての塩の配給が長い間つづいた。
 この食糧難をいささかなりとも救ったのが自治会の農園だった。大根、白菜、ホーレン草、南瓜、きゅうり、茄子、馬鈴薯、さつま芋などの野菜類を、時価の半値ぐらいで自治会で買いあげ、それを更に園の食糧係に買いあげてもらい現金収入源としていたのであるが、戦中戦後の現物入手困難な時代になると単なる現金収入源としてではなく重要な副食源になった。当時、うどん粉やうどんの代用食が多く現物支給だったので、その汁の実として、自治会は慰安配給または特別統制販売した。慰安配給は無料、特別統制販売は食料係の買いあげ価格より安値である。また、馬鈴薯やさつま芋も自治会が販売し、入園者の空腹を満たす助けとした。療養所でも、主食と共にさつま芋が配給されたが、島であるせいか芋が腐っている場合が多かった。その腐った分も農園のさつま芋が補給役をつとめた。しかし農園はあくまでも補足的なものに過ぎない。大もとの炊事場から出る主食、副食が不足しているのだから少々の補給では間に合わない。腹の虫がグウグウ鳴った。「これは結節が食うとつに変わらん」と言っていたが、その通りだと思えた。浜チシャやハコベも食べた。朝の味噌汁にお湯を入れて「増産協力」だと皮肉りながら腹をふくらませた。自治会は芋の茎も配給した。
 先に果樹園を芋畑に転換したが、20年9月には兎舎裏の斜面いったいを開墾し畑地とし、20年暮に足摺岬と呼んでいる谷を開墾、自治会直営の大根畑にした。しかし、これも焼石に水で、農園の作物が盗まれたり自治会が配給用として貯蔵している馬鈴薯やさつま芋が頻ぴんとして盗まれた。なかには看護先の不自由者の芋を盗む者もあった。不自由者は食料にも最も困窮していた。比較的恵まれていたのは農園耕作者で供出量は決められていたが、余分は自分のものになった。農園をもっていなくても、元気な者は開墾作業、薪割りなどに出れば、にぎり飯や芋類の特別配給があった。それは作業奨励金に代わるもので、作業ができない不自由者は黙ってみているよりほかなかった。そんな恵まれない者の芋が盗まれるほどだから放っておけず、自治会は野荒しや窃盗などの制裁措置を制定した。(21年5月)このため、今でも「芋ひとつで監房じゃ」と語りぐさになっている。いまでこそ「芋ひとつ」と言えるが、当時は喉から手が出るような貴重な食料で、しかも外から手に入れようがない時代だった。自治会がとった制裁措置に陰口はきいても、表面だって異議をはさめるものではなかった。自治会は制裁措置を講じて事足れりとしたのではなく、22年には南地区の山ぎわを新たに開墾し、甘藷畑にして食料補てんに力をそそいだ。ちなみに21年の馬鈴薯の自治会への供出量は2553貫(約10㌧弱)さつま芋は6032貫(約23㌧)で、一人当たりにすると馬鈴薯17kg.、さつま芋41kg.だった。自治会としては精一杯の努力を払ったが、その後も漬物用に干した大根が盗まれたり農園の作物が取られたりの事件は後を絶たなかった。自治会日誌によると、食料だけではなく薪小屋の薪も盗まれている。
 22年4月、重症者の滋養物として出す乳を採るため山羊を飼っていたが、その山羊が姙もった。山羊の飼育を勧められた星塚敬愛園から転地療養に来島されていた林医官は、この山羊から何頭の仔山羊が生まれるかという懸賞を出された。その投票箱につぎのような投書が入っていた。
   近ごろ、代用食はなし野菜もありませんので腹が減ってやれません。つきましては、野菜ができる迄  か、代用食の来る迄大炊事の方で飯を増して貰うようにお願いいたします。
   総代殿
 この投書について日誌は「右毛筆にてなかなか達者なり」と付記している。投書の主は不自由寮に籍をおいている者かも知れない。

漬物の代わりとして塩が配給されはじめられたころ、園の食料係から、塩の入手が困難な折柄、自治会の方で自家製塩しては、と話しが持ちだされたが、執行部は薪の確保が難しいこと作業従事者の過労と従事者がいないことを理由に断わっていた。しかし塩不足から海水で代用食を炊き下痢を起こす者が増えていた。中には流木を拾ってきて海水を煮つめ、ドロドロしたものだが塩をつくる者も現われてきた。
 こうなると自治会も傍観できず製塩を始めた。できた塩は執行部の手で寮順に配給された。製塩係だった矢野さんは「釜の底に一寸(3㌢)ほど焦げつきができるんじゃ、その焦げつきが欲しい言うて近くの者がようけ押しかけてきてのぉ」と満足そうに語ってくれた。

21年7月25日、連合奉仕団長が、近海の漁獲の許可を執行部に求めてきた。獲った魚は少しずつでも会員に食べてもらいたいというのである。人家のある場所へ上陸するのではないので問題はない。蛋白源にはみな飢えているので、執行部の方からお願いしますということになった。
 軽症な者はともかくとして、手、足の不自由な者は、周囲を海にかこまれていながら魚を食べることができなかった。魚、肉など献立に出ることはなく、蛋白と名のつく物を口にすることは殆んどなかった。たまにイカナゴが出たが、それは塩漬けにして、代用食の調味料になった。それを見かねての提案だった。
 漁獲の方法は、箱めがねを覗きながらタモですくうのである。場所は大島の周囲の海岸からよろい島、かぶと島、稲毛島で、また遠く志度湾沖の高島まで小舟で出かけた。大島の周囲では見釣りが流行っていたが、それほど魚は豊富だった。獲れた魚はメバル、アイナメ、ベラコ、タコなどで、収穫量は一回平均3貫(12着kg.)である。ピチピチした魚は初日(26日)病室入室者49名、同看護作業者(略して看護人)14名、一人当たり30匁(125㌘)ずつ無料配給、残りは炊事へ出し一般に供した。次からは寮順を追って、一人30匁ずつ配給し、一巡した8月29日、9回の出漁で漁獲奉仕は終わった。
 連合奉仕団の企画に触発された執行部は、8月1日末沢事務官に漁獲用網の支給を要請し、話合いの結果、中古の地引網を購入することになった。18日に、買入れた網が一同の前に披露された。この日の模様が自治会日誌に簡潔に活写されているのでここに引用する。

   八月一八日
 〇地曳き網の進水
  かねて計画中なりし地曳き網はこのほど漸く調整なり待望の漁獲設備ここに実現す。
  よって午后一時よりまず職員が使用し、収穫鮮魚の一部(約九百匁)を病室へと指定のうえ下附され、  直に当局の希望通り入院者ならびに看護人に一人につき一〇匁ずつ慰安配給をなす。
 〇患者側の地曳き網の試用
  職員側にて一応鮮魚捕獲作業終了の後、直に当方に引渡され、午後五時よ頃より試験的に使用す。珍ら  しい地曳き網の進水に網を引く者も多いが、見物人も防波堤に鈴なりなり。盛観を呈す。
  試験的に入れた二網の収穫量はなんと約百匁なり。

 8月21日から本格的な地引き網漁に入った。当初は連合奉仕団の手によって行なわれた。収穫量5貫目(20kg.)あじ、せいご等、一人当り10匁(40㌘)ずつ全員に慰安配給した。漁は天候、塩順によって収穫が左右される。不漁のときはあじが15、6尾という時もあれば、条件に恵まれれば20貫も獲れるときもあった。奉仕団の網引きは9月5日まで、一人20匁ずつの慰安配給が全員に一巡するまで行なわれた。
 9月5日から漁業経験者4名を係員に選任し、係員が網の保管、修理に当り、係が網入れ、人集め、その監督にあたった。獲れた魚は一人30匁ずつ、15銭で寮順に統制販売する。網引きに参加した者には一食の副食分というのが名目だが、実際には浅い食器いっぱいの魚が手渡された。だから人集めに苦労することはなかった。
 秋になると魚の収穫は目にみえて増えた。係は沖合に魚が湧いているのを発見すると、合図の太鼓(後には手振りの鐘)を鳴らす。南北の軽症寮から浜伝いにわらわらと人が集ってくる。その間に別の係が小舟で網を沖合に入れてもどってき網引きとなる。収穫量は平均して5貫、11月3日にはいわし31貫が獲れた。新記録である。この日は一人30匁ずつ全員に慰安配給された。1貫200匁(4・4kg.)の大こぶ鯛が獲れたこともあった。11月末には網揚げが行なわれたが、その後、個人持ちの網で漁がつづけられ、すし用の魚として炊事に納入したりした。
 23年には外部から魚を購入できるようになり、自治会の地引き網は取止めになった。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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