閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第五章
 欠乏のとき

 13 最悪の医療

 大風子油の入手が困難になり注射回数も週2回に減らされ、痛み止め、胃散、熱さましなどの量も回数も減らされていたが、戦後も一向に回復されなかった。一部の、金がある者は買溜めの大風子油を漁ってきて自分で注射していた。日に日に増悪してゆく療友を見ると居ても立ってもいられないのである。薬品類の欠乏もさることながら、ことに困窮したのがガーゼ、ほうたいの欠乏だった。19年には、近隣市町村の戦災を予想した特配を含めていくらかの手持があったが、高松空襲に際して、園職員をあげて救護隊を編成し負傷者の手当てに大活躍した。がそこで予想以上の材料を使用し不足をきたしていた。余談になるが、この高松戦災に対して自治会は、会員に呼びかけ戦災見舞金218円93銭を贈ったことを付記しておく。何程もできない額ではあるが、日頃から厚意を寄せてもらった高松市民に対するせめてもの礼であり、危機に面すれば相身互いというのが入園者の真意だった。元野島園長はその著書「らいと梅干と憲兵」に光田健輔氏の思い出として、21年11月末にガーゼ100反の特配をうけたことを書いておられるが、たまに特配をうけても、栄養失調に伴なう病状悪化には追いつかなかった。頭から顔、手の先から足の先まで結節が崩れ化膿しているのだから、一人のほうたい交換で1時間以上かかる者もいた。ほうたい、ガーゼはいよいよ不足し浴衣や軍服の裏地のような緑色の布にかわった。それも熱湯で洗っては何回も使用した。ほうたいも同様である。油紙もなくなり、古い官報や処方箋を油紙の代りとして使用した。ガーゼは申し訳程度だから膿が表面ににじみ出て、蝿の格好の卵の生みつけ場所になる。傷の手当てで処方箋とガーゼを取るとうじ虫がポロポロ転げ落ちた。それを見て逃げだす看護婦もいた。新任の看護婦である。慣れた外科助手(軽症者)でも一瞬顔をそむける。
 うじは手、足、頭、顔だけでなく眼窩や鼻孔にも巣くった。知覚が無いので蝿がたかっているのも分からないし、追いはらいようもない。また追いはらう気力もなかった。
「耳が痛いというので覗いてみると、そこにうじがおった。頭から転げて耳に入ったんじゃろう。ピンセットで取ってやると痛みがとれたと言うて喜んでくれてのぉ。しかしその人も間ものぉ死んでのぉ、言うてみればうじ虫にとり殺されたようなものじゃ。あれがまさに地獄の世界というのじゃろう。戦争というと、あの頃を思い出してぞっとするよ」と療友は語ってくれた。
 うじ虫にとりつかれる悲惨な状態は、プロミン治療がはじまる24年春までつづいた。
 20年10月には一度に6名もの者が逃走した。苦しい食糧不足のうえに治療らしい治療をうけることができないから阿保らしくて逃げだしたのだ。逃げる家がある者はよい。逃げたくても逃げる家が無い者は、逃走する者が羨ましく妬心を抱くはずだが、何故かわがことのように荷物送りをひき受け逃走が成功するよう執行部への報告をおくらせた。己の果せない願いを友人に託したかったのであろう。この年の死亡者60名、死亡率は10・7%で19年につづく高さである。21年は10・3%、22年は7%23年は4・8%の死亡率である。戦争がもたらした食糧不足、物資の欠乏が緩和するにつれ死亡者は漸減している。この減少に自治会の努力が些少なりとも力をかしていることは否めない事実である。そしてこの間に亡くなった者は、戦争の被害者と呼ぶべきである。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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