閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第六章
 胎動期

 15 投書事件(昭和22~24年)

 22年9月22日、会堂において園長、幹部職員と正・副会長、各部主任との、月例の懇談会が開かれた。席上、園長より草津事件について説明があった。
 草津事件というのは、同年8月に草津の栗生楽泉園で起こった事件で、同園職員が患者用の物資を横流しして私服を肥やしていたことが発覚し、それとともに、らい予防法の中の懲戒検束規定によって患者18名が特別病室(重監房)で死亡していることが明るみに出された事件である。この問題は共産党の徳田書記長により人権じゅうりん問題として厚生委員会で取り上げられた。栗生、多摩全生園患者はこの事件をらい患者全体の人権問題として受けとめ、敢然として抗議に起ちあがったのだった。
 栗生の特別病室には、警察の、いわゆる狩込みで大島に2度ほど出たり入ったりした大島(大島では八十島と名乗った)満が警察の手で送られており、重監房での最初の死亡者であった。彼は8年、自治会が発足して間もなく警察の手で送られてきたが、自治会は増床計画進行中で入れる部屋が無いという理由で彼の入所を拒否している。それで島の監房に入れられたが、彼は監房でと博を開帳し、遂に島から追放された。
 園長の報告がどういうものであったか、この日の日誌は「草津及び全生園の騒動の原因について色々とくわしい御話しあり」とある。これによれば、園長は栗生、多摩患者の決起を騒動として捉えていたことが分る。栗生の特別病室事件の詳報は「アカハタ」にしか掲載されておらず、「アカハタ」が入っていない自治会は、園長の報告によるより外に情報の得ようはなかった。ことに厚生省関係の情報は園長の報告が唯一の情報源だった。
 日誌はついで「お願い事項」として要求事項を列挙している。当時、何を必要としていたか窺えるのでその主なものを挙げてみる。
 〇歯科医を入れて貰いたし。
 〇病室主任室に電話を取付けて頂きたし。(看護婦当直室との連絡用、病人の注射、薬など必要な時、当  直室まで出かけ大声で呼び出さねばならなかった)
 〇担架車の箱を作りたいこと。(担架車は急患を運ぶ車、往診は受付けてもらえなかった)
 〇病室の寝台わら布団、畳の表替えをしてもらいたし。
 〇精米機の修理と製材機(薪割用)を買って貰いたい事。
 〇作業者難につき作業者優遇品を出してもらいたい事。
 〇馬鈴薯種300貫、玉ねぎ種買入れて貰いたい事。
 〇農具を入れてもらいたい事。
 〇綿の打替えをして貰いたい事。
 〇下駄、足袋の購入。
 〇電球を至急に入れてもらいたし。(これまでより光度の大きい電球)
 〇茶碗メゴ、大工道具の購入。
 〇井戸用ポンプ5台と鉄管代用の竹管の購入。
 〇果樹園に電灯をつけて貰いたし。尚外灯を4ヶ所つけてもらいたい。(盗難防止用、果樹園には当直が  ついていた)
 このうち電球は翌日に支給、2日後には石けんなどの日用品とともに茶碗メゴが支給され、反応は早い。草津事件は大島にも影響している。
 懇談後1週間経った29日、星塚より電報が入った。
 「全国ノ患者 団結シテ起ツノ時致ル 我等ハ草津 多摩ニ同調シテ起ツ 貴園ハ如何ヤ 電ニテ返待ツ  敬愛園患者」
 「全国患者連盟結成 賛成カ 電ニテ返待ツ 敬愛園患者」
 自治会幹部はただちに園長および幹部職員に会見を申しこみ、その意見を聞いたうえで評議会との合同会議を開催した。その結果、大島は草津とは事情が違うので、草津の病友に対しては同情するけれども、連盟には加入しないで、どこまでも園長を中心にして独自の立場に立ち、大島は大島の要求を掲げて進む、と結論した。
  要求事項
 一、     治療資材の充実。
 一、     生活保護法による扶助金の増額。
 一、     一般施設の改善(営繕、修繕を含む)
 一、     作業賃の増額。
 一、     繊維製品の支給。
 一、     ゴム製品の支給。
 一、     その他療養生活の確保。
 つづいて午後5時より室長会を開催、栗生および多摩の騒動の趣意書ならびに決議文を朗読、説明のうえ、評議員会の結論を報告し、一同の賛同を得た。星塚へは連盟へ加入しない旨の返電を送った。
 大島の自治会は時流に反して創立され、戦争中も園長の庇護のもとに絶えることなく連綿としてつづいてきた。それが入園者にはひとつの誇りであった。また、瀬戸内3園の申合せもあり、草津事件、患者連盟には簡単に同調できなかった。しかし、園長中心主義を掲げたものの、肝じんの園長が動かなかったら面目ないので29日に会見を求め、要求事項が空文になることのないよう念を押した。
 このあと10月7日の懇談会では、園長より草津事件についての報告があり、ひきつづき生活扶助金が翌23年4月より国費で支給されることになったこと、食費も約3倍に増額されること、ガーゼ、寝台が、光明園から入荷することを伝え、最後に草津事件を総括して、今回の事件は社会人に対してらいの認識を深めたこと、今一つは社会の同情を失ったこと、進駐軍よりきびしい司令が出て友園にもあるいは迷惑があるかも知れない、と結んだ。
 園長の言葉は、管理職の立場から一歩も踏み出しておらず、入園者の人権は念頭にないようだ。更に進駐軍を持出し脅しにも似た発言だった。ちなみに22年はGHQの命令によりゼネストが中止になった年で、まんざら荒唐無稽の発言とは思えなかった。また、同情云々についても、実際、田中互助金、三浦互助金は現に活用されて収入のない入園者を潤おしており、三浦氏の基金によって開拓された三浦果樹園から穫れた作物で、飢えから救われていることも事実だった。
 10月9日、星塚より「全国らい患者生活擁護連盟規約」が送られ加盟を求めてきたが、協議の結果、20日、連盟不参加の声明書を松丘保養園、東北新生園、栗生楽泉園、多摩全生園、駿河療養所、邑久光明園、長島愛生園、菊池恵楓園、星塚敬愛園の9園へ、そして田中文男氏、三浦幾次氏、藤原鉤次郎氏、塚田喜太郎氏、浜田光雄氏、本田一杉氏、大浜文子氏ならびに園の幹部職員のもとに送った。

定例室長会で「総代以下各役員を一般選挙にせよ」という意見が提出された。その前から作業改正委員会が開かれていたが、そこでも同様な意見が持ち出されていた。23年3月12日のことである。
 おなじ日午後4時より、会議室(現編集室)で不自由室の室長が集まり話合いのうえ、「お願い事項」としてつぎのような要請を執行部に提出した。

  お願い事項
 一、     配給品の容れ物は、必らず配分までに配給所まで持参して頂くこと。
 一、     食事前は事情の許す限り15分前にきて頂くこと。(食事運搬車を待たさないため)
 一、     食事はゆっくりさして頂き、特に不自由な人の食器を洗ってもらうこと。(早い食事についていけな    いで、別に後から食べる者がおり、その食器も洗ってもらいたいという要求)
 一、     松葉は多少にかかわらずかいてきて頂くこと。
 一、     評議員は如何なる選出法によるとも、2名乃至3名、不自由室より選出して頂くように、男不自由室    長に特にお願い申しあげます故によろしくお願いします。
 この不自由室室長の動きの模様は、狭い園内にすぐ拡がり、翌日、不自由室看護人である婦人たちが、不自由室看護作業をやめさせてもらいたい、と申し込んできた。執行部は不自由室室長の臨時集会を開催した責任者を呼び出し弁明を求めたが、責任者は「別にかわった事を求めたのではない。これまでやってもらっているとおりを今後もやってもらえばいいのです」と詫びをいれてケリがついた。
 面倒をみる者と面倒をみられる者の対面、それも相手が多ければ、個人の不誠実を挙げる訳にいかない。相手がおなじ患者であるだけにいっそう仕末が悪い。お願い事の最後、不自由室から2名ないし3名の評議員を送りこむのが主眼目だから、ここは折れるに如かず、だったのだ。
 役員選出改革についてはもう一つ意見が出ていた。それは文芸作品募集箱に入っていた投書で、有給顧問制の廃止を訴えていた。各部主任までの選挙、不自由者代表の評議員選出、いずれの意見も、より多くの会員の意見を自治会運営に反映させようというものであって、民主化に沿った意見ではあった。
 しかし、これらの声は自治会発足以来、代表(総代)難に苦しみ何回か崩壊に瀕してきた事実を無視した意見であった。
 顧問制は自治会発足当初から設けられた制度だった。何しろ素人の集りである。先頭に立つ者は心細く相談相手が欲しかった。それが顧問制のはじまりだった。途中、何回か中断されたが、ずうっと引継がれてきた制度だった。ことに戦時中(14年)は、新人登用が叫ばれ、新人を援ける意味もあって顧問をおくことが規約に明記された。また、20年には時局の悪化が予想され、悪化に伴なう混乱に備えて臨時措置として有給顧問制度が設けられたのである。有給と断わっているが、これは権威づけのもの、単なる顧問でも謝礼が出るので大した変わりはない。それがそのままひき継がれてきたものである。ただいつまでも親離れできないおそれはあった。
 各部主任の選挙にしても、かつて実施していたもの、それも代表難に苦しんだあげく、正、副総代の仕事をしやすくする、度重なる選挙(8回)で嫌気がさし、会員の選挙に対する関心が薄れるのを防止する目的で、主任以下の役員を正、副総代の推せん制に切替えたのであった。
 不自由室代表の評議員については、すこし事情が変っていた。自治会発足当初は、不自由室代表として別に2名の席が設けられていたが、9年以降は、不自由室代表としての特別の席は外された。が初期の評議員あるいは創立時に活躍した功労者が、やがて不自由室に入り、そのまま評議員に選出され、不自由室代表のかたちになっていた。その人たちも戦中、戦後の食糧不足、治療不足でつぎつぎ倒れ、ちょうど不自由室代表といえる評議員はいなくなっていた。21年5月の調べでは、軽症者57%不自由者43%で、不自由室代表の評議員は当然考慮されてよい問題だった。
 14日、執行部と評議員の合同で次期役員選挙について協議に入った。先に出された3つの改革意見が中心議題である。長時間の論議のすえ、現在の情勢ではやむを得ないこととし、臨時措置として次のように決められた。
  一、     総代以下各役員を一般選挙とする。
  一、     候補辞退を全面的に認めること。
  一、     評議員会を諮問機関とし、正、副議長を互選すること。
  一、     室長会に決議権を与えると同時に、正、副議長を室長会より互選すること。
 一見して民主的にみえるが、実際には実現不可能な決定だった。候補辞退を全面的に認めれば、これまでの役員経験者はすべて候補辞退するだろうから、執行部を構成することができない。室長会に決議権を持たすにしても、52名という多数では深く議論をつくすことは不可能なことである。これでは、ご意見どおり自由な選挙にします、私たちも役員の辞退を自由にさせてもらいますから好きな方でやって下さい、と開きなおった形である。
 なお、顧問からは、投書があった翌日、総代のもとに辞表が届けられていた。
 選挙は候補辞退受つけから始まる。締切日は20日、この日までに届けでた辞退者は21名、予想どおり執行部役員またはその経験者はもちろん評議員(役員経験者が多い)全員であった。いつもなら辞退者の審議が行なわれるのであるが、今回は全員パス。
 かくて26日選挙、開票結果は白票65%当選者の得票はわずかに55票、10%にも満たない票数だった。おまけに当選者は、家庭の事情で星塚へ転園手続きをとっている最中、役員どころではない者だった。大方の予想どおり最初の総代選挙でつまずいた。
 こうなると会員の目は当然、一連の選挙改革を唱えた者に向けられた。ことに投書は無記名である。投書した者は、作業改革委員会で改革について発言した者、室長会で発言した者とひそかに通じあっていると見られ、取調べが行なわれた。その結果、関係者はそれぞれに制裁をうけた。最高は功労金の差止めと自治会からの配給品(馬鈴薯、さつま芋など)停止だった。食糧不足がまだつづいていたので最もこたえる処罰だった。この処罰は24年に解除された。
 不自由室からの評議員選出は27年、地区別、性別による評議員選出制が採用され、実現した。各部主任の選挙は28年に試みられたが、先に挙げたような弊害が出、1年で廃止された。

高松宮様ご来園の下見という触れこみで23年5月17日、増原香川県知事一行が来園された。その服装たるや、まっ白の予防着に目深くかぶった白帽、顔が隠れるばかりの大きなマスク、新調の長靴、まるでペスト患者の病院を視察にきたようないでたちだった。園内視察といっても中央道路を北に行って戻るだけだった。予防着ももちろん園のほうで準備し、案内も園の方でしたのだから、文句をつけるなら、むしろ園につけるべきだろうが、入園者は、「知事さんはエライもんよのぉ、白い鉄かぶとに白い外套で完全重装備じゃ、あれじゃあどんな菌じゃって寄りつけんよのぉ」とささやきあった。
 県知事一行を見送ったのは屋内のガラス越しだった。当時は、見学者があれば遠くから見つけコソコソ逃げ隠れたり、いそいで道を変えたりしていた。予防着を着た集団とまともに出会うには、数だけでも気おされるが、白いヨロイをまとった人に好奇の目で見られるのに耐えられなかったからだ。
 27日、宮様が来園されるというので、中央通りに面する寮舎付近はきれいに掃除して待ったが、誰も外に出る者はなかった。どうせ増原知事のように、完全重装備で中央通りを行って戻るだけだろうから、そのあいだ部屋にこもって通りすぎるのを待てばよい、と思っていた。
 やがて高松宮様はじめお付の厚生省医務局長東龍太朗氏、療養所課長加藤英一氏も予防着なしの背広姿、いつも予防着の園長、幹部職員はもちろん新調の礼服のまま、各社の新聞記者も平服のまま現われた。この予想に反した、予防着なしの服装に、患者は狐につままれたようにあっけにとられた。しかも視察は予想外にひまどった。宮様の行動は電光のような速さで園内を駆けめぐったが、その情報によれば、患者でさえ近寄らない漬物小屋に入りいろいろ質問されたり、裏路地に入られたり、療舎の窓から患者に声をかけられたりされたという。宮様から声をかけられた患者は、おどろきのあまりシドロモドロ、何を答えたか分らなかった、と述懐している。
 狐につままれたような驚きは大きな感動に変った。その感動は、後から伝えられた婦長からの情報で更に高まった。それは、園では増原知事が着ていたようなまっさらの予防着、マスク、長靴を用意、それを宮様の前にさし出したところ「君、らいは接触伝染だろう、そんな物、必要ないよ」とそのまま席を立たれたので、予防着を着ようとしていたある幹部職員は慌てて脱ぎ、あたふたと後を追ったというのである。実はこれは誤伝で、遅れてきた新聞記者が、慌ててそこに出されていた予防着を着ようとしていたので、その場に居あわせていた婦長が、「宮様は予防着なしで出かけられましたよ」と伝えると、記者は慌てて後を追ったのが事実である。それを気転の利く者が、日頃、威張っている幹部職員にすり替え、溜飲を下げていたのである。
 予防着、それは伝染病という名目のもとに、園内視察者や見学者、そして面会者も予防着を着せられたが、患者にはそれが有毒地帯と無毒地帯の境界に設けられた有刺鉄線のように、あるいはその象徴のように思えた。そこには慢性伝染病といわれておりながら、あたかも急性伝染病のように扱われる不満とかなしみがあった。急病人が出ても往診はしてもらえず、担架車で治療室へ連れてゆかねばならなかった。病状が悪化しても医師にはなかなか出てもらえなかった。予防着を見る目にはこうした思いがこもっていた。
 だが、慢性伝染病とはいえ伝染病であることに違いはなかった。園当局がどんな予防措置をとろうと、医学的な知識がない患者が、それに文句をつけることはできないことだった。それを、こともあろうに高松宮様が、園が決めていた行き過ぎた予防措置を拒否されたのである。それも患者が日ごろ心ひそかに思っていた通りの言葉で、過剰予防措置を身をもって破られたのである。まさにテレビドラマ「水戸黄門」を地でいった図柄である。患者は、宮様がとられた行動、予防着を拒否された宮様に感動し、指の無い手を拍って喜んだ。そして事ある毎に高松宮様の話を持ち出しては胸を熱くするのであった。
 しかし、事はドラマのように進展しない。往診にしても、自治会執行部は終始、懇談会を通して往診を要請してきたが、一向に進展がなかった。あるとき、こんなことがあった。「君たちは往診、往診と喧しくいうけど、医者の立場を考えたことがあるかね。夜中に起こされて往診に行って戻るときには体を消毒する風呂もないのだよ。君等が考えるほど簡単なことではないんだよ」と医師は体をふるわせながら言った。「そうでしょうか、高松宮様は、らいは接触伝染だからと言われて平服のまま園内視察をされました。往診程度なら、手足を消毒されるだけですむのではないですか」時の総代がそう述べたら医師は黙り込んでしまったという。それでも往診は実現せず、29年4月になってはじめて日の目をみることができた。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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