第六章 胎動期
16 新薬プロミン(昭和23、24年)
不治の病であるらいを可治の病に――という一大転換をもたらしたのは、プロミンに代表されるスルフォン剤の登場である。
プロミンは、日本が戦場を拡大し太平洋戦争を開始した年、16年(1941年)にアメリカのらい療養所(カービル療養所)で試験的に用いられ、結節らいに対して驚異的な効果をあらわしたものである。ここにアメリカが持つ奥の深さを知らされるとともに、もしも、戦争を起こさなかったら、どれほど多くのらい患者がが救われたことであろうか。
日本では、21年、東京大学薬学教室の石館守三教授が合成に成功。22年から多摩で試用されめざましい成績を得た。
大島では23年9月3日、園長より新薬プロミンについて説明があったが、入園者はこれといった反応は示さず、むしろ、避けて通りたい気配すら窺われた。それというのもセファランチンの試用、虹波の試験療法で、多くの患者の病状が悪化したのを見てきているからである。10月4日の長島、邑久との三園協議会では、多摩の情報を得ていた邑久から、新薬プロミンの獲得運動促進の提案があったが、大島代表からは、精製大風子増配要請の提案がなされたほどだった。
大島で最初にプロミンが使用されたのは23年11月1日である。初回は試験的な治療で、適用者は25名、厚生省から指示された病状の者として、医師から選定された者だけである。
“そりゃあ不安はあったよ。不安はあったが咽喉切開せなならんと思うと居ても立ってもおれんでなあ。おぼれる者はワラをもつかむというけど、あの時がそうだったんじゃのぉ。それに三園協議会でああいう提案があったんだろう。多摩でも虹波などやったことじゃろうに、その患者がええというんじゃから、効くかもしれんと思うてのぉ”
プロミン治療の選定からはずされた者は、疑惑と好奇心のいり混じった眼で、その経過を見守った。なかには「モルモット代わりになりゃあがって、アホウな奴じゃ」と陰口をたたく者もあった。
治療をはじめてから1週間ほど経つと「鼻が通るようになった」と言いだした。鼻腔の中にできた結節が変化しているのだ。それでも疑心ははれなかった。その後も鼻が快くなり呼吸が楽になったという者が増えていった。ところが1ヶ月を経た頃から、顔面や手足に出ていた結節が崩壊しはじめたのである。一同はセファランチンのことを思い出し、暗然となった。しかし、それは早がてんだった。崩れはじめた結節は目にみえて乾きだし、3ヶ月経ったころには、月面のようにボコボコした結節は消え失せ、傷あとを残すのみとなった。
こうした結果を誰が想像し得たであろう。それは夢のようであった。どんな苦しい目にあってもよい、それを乗りこえた時らいが治るのであるならば――と何度ゆめ見てきたことか。みな自分の目を疑ったが、それはやはり事実だった。獅子面として厭がられた結節は消え、茶褐色の傷あとを残して癒えていた。もう、うじにまみれて死ぬこともなくなった。喉切り3年といわれていた咽喉切開の心配もなくなった。鼻孔にゴム管を差し込む面倒もなくなった。プロミン以前の後遺症がのこるのは残念だが、歴史的に業病だ、天刑病だ、不治の病いだと言いならされてき、汚いものの象徴として扱われてきたらいが治るのだ。
プロミン治療を受けなかった者の疑心暗鬼は、一転して羨望と焦りに変った。なかには、なけなしの金を吐きだしてプロミンを購入、治療をうけたいと申し込む者も出てきた。自治会の要請をいれて、園費でプロミンを購入し治療することになった。
その年の春、12月30日に、人員を35名に限定し、結節らいで特に咽喉や鼻腔を侵され急を要する者だけという条件で、プロミン治療希望者の受付けが行なわれた。暮れも押しつまったうそ寒い日であったが、受付所には70名をこえる者が集まり治療棟の廊下をうずめた。受付がおわったあとも70名余りの希望者を35名にしぼるという仕事が残る。「あんな人が来てえ、本当に心臓がつよいんだから。私の方がずっと悪いのに・・・」「おとなしいからというて馬鹿にするなよ。公平にやらんと承知しないから・・・」やっさもっさやったあげく、35名に3名を加えてやっと整理がおわった。翌24年1月19日から2回目の治療がはじめられた。
その後、3月31日から希望者210名に対し3回目のプロミン治療がはじめられ、6月から全員に施行されるようになった。
新薬プロミンによって不治の病が可治の病になった。
「古くからの癩治療剤である大風子油は癩菌に対して殺菌的に働かず、単に癩菌の増殖を一時的に抑制するものと考えられていたのにたいし、プロミンは兎に角、癩菌に対して殺菌的に働く(東大医学部教室、谷岡喜平)。」「癩は必ず治癒し得るという近代科学的根拠の上に立証が与えられた(石館守三)」入園者はこれら医学者の報告は知らなかったが、目前に起こった変化によってそれを直感した。常に隣りあわせにあった死が遠去かったことを感じ、すこしずつ自分をとり戻しはじめた。
大島で第1回のプロミン治療がはじまって間もない11月26日、大島より先に試験治療を行なった多摩から、プロミン獲得運動に参加するよう呼びかけてきた。大島では治療が始まったばかりだし、プロミンには消極的だったので、独自の立場で研究すると、静観の態度をとった。しかし、その後プロミン治療を希望する声が高まってきたので年が明けた1月11日、プロミンによる全員治療を要望した嘆願書に署名簿をそえて園長に提出した。嘆願書を手交したときの園長の話では、6000万円のプロミン購入費が予算化されているから、全員治療も大丈夫、ということであった。
ところが、2月27日、多摩からプロミン予算が大蔵省で1000万円に削減されたので、運動に起ち上って欲しい旨の電報がきたと庶務課長から通知があった。翌28日には、朝日新聞高松支局より、全生園の患者がプロミン予算削減に対してハンストを決行したと電話が入った。その通知とくびすを接するように栗生から入電があった。「政府プロミン予算ヲ削減シタ 我ラハ死ヲトシテ決起シ ハンストヲ決定シタ 楽泉園患者一同」
今度はこの前の冷淡さと違い、プロミン治療からもれた者が耳をそばだてていた。執行部は、その日の午後長島へ出張することになっていた園長に会見を申しこみ園長の意向を質した。園長は愛生園での病理学講座に参加する各園医務課長とともに対策を講ずると回答した。その後評議員と各部主任を含む合同協議会を招集し、栗生、多摩の両自治会へ「我等モ努力ス奮斗祈ル」の返電を打つ。合同協議会では、事態は緊急を要するのだから、取りあえず留守をまもる医務課長に会見を申しこみ対策を練ることに一決、医務課長と話合いの結果、大蔵省、厚生省の局長、課長あてにプロミン予算復活を要請する電報を打った。
翌3月1日、もっと強力な方策を講じなければ、という声があがって、愛生園の園長のもとへ代表を送るべく協議していたが、その協議中、多摩の自治会と職員組合から2つの電報が入った。
「予算情勢悪シ 全面的ニ起タレタシ 貴園ノ様子知ラセ 多摩患者」
「プロミンノ件見通シツイタ 平静ニ返サレタシ 全生園」
自治会では2つの電文について協議、その結果、大島としては行動を起こさないことに決定、多摩へは「見通シツイタ由 ナオ互イニ努力ス」の返電をうった。こうした事態の動きの間にも栗生から「プロミンニ関シ 患者ハンストニ入リタルカ 返」の電報が入ってきた。ただちに返電「多摩ヨリ見通シツイタ知ラセアリ 自重シ今後ニ備ウ」。おり返すように多摩自治会から「前途見通シツイタ 今後ニソナエ待機セヨ ストスルナ」の電報が入った。電報だけのやり取りとはいえ、これほど激しい友園との交信はこれまでにないことで全員の目を瞠らせた。
午後、長島から戻った庶務課長と会見して、長島、邑久の様子を聞いた。課長の話では、プロミン予算は復活される模様。今後は全生園園長が責任をもって交渉されること、長島、邑久の自治会は何らの行動も起こしていないということだった。その夜、大島は自重して行動を起こさない方針が再確認された。
多摩、栗生を中心にした運動の結果1000万円に削減されたプロミンの予算が5000万円に復活された。またプロミンの単価が500円にひき下げられたので6000万円に復活されたのと同じことになった。こうして全員のプロミン治療が確保された。
この運動は突風のように起こり短時間に幕をとじた。にも関わらず若者の間に何かを感じさせた。それは友園との連帯感であり、自分の声をあげることであった。
錠前がいらない島、相愛互助の平和な島が自慢だった大島に、大きな盗難事件(未遂も含む)が24年に2件も起こった。その一つは28万円盗難事件である。入園者はこれを28万円事件と呼ぶ。
事件は執行部が交替したばかりの4月13日に起こった。午前6時半、当直2名が起きて詰所(旧自治会事務所)内を掃除したあと、何気なしに壁ぎわの金庫を見ると様子がおかしい。扉が少しだが開きかけており、錠に鍵が差しこまれたままになっていた。2人で話合っているうちに事の重大さに気づき、一人は総代と会計部主任のもとへ連絡に走った。総代、会計部主任は現場に駆けつけ、金庫を調べるなり蒼白になった。療養慰安金586名分を前日に入れたばかりだった。盗まれた金額は、自治会の手持ちの金と合わせて28万円となにがしにふくれあがっていた。
28万円といえば、当時はがきが2円だったのが現在20円だから、最小に見積っても280万円になる。24年の作業賃が甲、乙、丙のうち乙は9円80銭だった。そういう作業に従事していた入園者から見れば、一般社会人が考えるのと違って気が遠くなるような金額だった。口さがない連中は、家が建つだろうと噂した。事件は事務分館から所轄の志度署に届けられた。
志度署から刑事が来たのは午前10時頃、高松便はすでに出航していた。形のように事情聴取が行なわれ、内部犯行説、外部説、どちらとも決めかねる。ということだ。当直者が言うには、上りがまちには地下足袋の足跡、畳の上にはそれとおぼしき泥がこぼれていたが、なぜだろうと思いながらも怪しみもせず、いつものように掃除した、と。金庫の指紋も、係の主任が盗難金を調べるために何回も開けしめしているので、それらしい指紋は出てこなかった。これまで犯罪らしい犯罪に出くわしたことが無いので、現場保存という原則さえ誰も知らなかったのである。
翌日から執行部は禁足令を出した。つまり一時帰省を禁じたのである。月はじめに金が入ることを知っている者、詰所の位置と金庫の場所を知っている者の犯行というのが内部説の根拠である。しかし、人が密集している入園者地区での、入園者の犯行は難しいと考えるのが常識、捜査は混迷を極めた。
執行部内関係者は勿論のこと、当夜のアリバイが怪しい者、はては再々一時帰省する者まで対象とされ取調べられた。また自治会との話合いのうえで入園者の押入れまで調べられた。ただし、刑事は縁先に立ったままで部屋にひろげられた荷物を見るだけだった。自治会をあげて藁をもつかみたい気持から、戦争中流行ったコックリさんまで持ち出され、その卦によって青年団が西の浜を掘り返す大騒ぎになったが、結局は犯人も金も分らずじまい、ついに迷宮入りとなった。外部の方の調査は志度署の司法主任が担当ということだったが、どこまで調査したのか分らない。家宅捜索に近い調査をしたのは入園者地区だけだった。時の総代は責任をとって、辞任届けを評議員会議長に提出した。
もう一つは麻薬目あてのピストル強盗未遂事件である。
8月26日、この夜午後8時から丸亀映画連盟四国支部より映画の慰問があった。題名は「君待てども」だった。
映画が終わり、暑さの中眠りにつこうとした午後11時、幹部職員より、今夜医局の麻薬目あてに10人組みのピストル強盗が大島に行くという情報を得て、木田地区の警官が武装してきている。患者側としても十分に警戒し犯人逮捕に協力を願いたい、という電話が入った。早速、自治会役員ならびに顧問、嘱託、評議員から3名、青年団より元気な者15名を招集して売店、恩寵開館の西(西の浜)と東の浜の見張りに立った。
午前1時頃、一隻の漁船が西の浜へ着くのを発見、直ちに詰所へ、詰所から本館へ連絡、見回りに出ていた刑事の推定では、懐中電灯を手にして上陸した者たちは3名のようだと言う。ちょうどその頃それとは知らぬ患者2名が浜を見回っていたところへ刑事が「誰かッ」と誰何(すいか)した。2名は慌てて「患者ッ」「何という患者かッ」「光谷と城市です」お互いにピストル強盗団というのでおっかなびっくり、つい声が大きくなる。このやりとりを物陰で聞いた強盗一味は、きびしい警戒ぶりに急いで遁走したものらしい。園の船、浦風、大島丸もこの漁船捜索に出たが、時おそく遂に発見できなかった。その夜調べたところでは、丸亀映画連盟の映写機が失くなっていた。ところが、警戒に入る前に、ある青年団幹部が西の浜に涼みがてらの散歩に出ようとしたら、浜からすぐの塵芥焼却場の傍に映写機が置いてあるのを見たというのである。賊は早くから上陸しており、警戒がきびしいので麻薬は諦らめ急拠映写機に切換えたのか、そこのところはハッキリしない。
警戒は夜明けまでつづけられ、午前6時に総代は昨夜からの事態の模様を園内放送で報告、犯人の足跡を発見した、強盗団の一味が西の浜山に残っているかも知れず、これから山狩りをするということで会員の協力を要請した。山狩りは午前7時まで行なわれたが、何の手掛りも得られなかった。
盗まれた映写機は、9月に入って間もなく高松市西浜町に隠してあるのを突きとめ、預り主が分っているので犯人は近く判明するだろうと奥村係長から報告があった。しかし、8月27日から組織された特別夜警団は翌年1月25日までつづけられた。
ピストル強盗団の来島をみると、28万円事件も外部からの侵入と視てもおかしくはない。同じ24年の暮、長島でも強盗団の侵入があったという。ちなみにこの年はドッジラインが施行され、不景気風が吹き荒れていた。
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