閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第一章 島のあけぼの


1 一台のラジオ(昭和6年)

昭和6年1月6日は寒かった。周囲の海は冷えびえとちりめんじわを刻み、ガラス戸はコトコトと音を立てていた。この日ついに大島療養所の患者410余名が、所当局の不誠意な扱いにたえかねて決起した。
 午前十時半から急に室の世話人会(後の室長会)が開かれることとなり、男24室、女11室の世話人35名はめいめい座布団を抱え、着物のすそをひるがえして小走りに会堂(会館)へ集まった。
 定刻10分前にカネが鳴る。本物の鐘でなく、長さ4、50センチの汽車のレールの切れが軒下に吊りさげてあり、それを金槌で叩く。カンカンカンと、余いんのない寂しい音である。このカネが朝7時、晩9時(夏は6時と10時)の時報のほか、集会等の合図であった。
 触れごとがあると、ふれ人が各室をふれ歩いた。その触れ人はたいていみなが室にかえり、まだ出てない食事時に来る。療棟は共同のかまどをついた中央の通路をはさんで、左右2室に分かれた。1室18畳敷きが多く、24畳敷きが4棟8室ある。(定員10名〜12名)室長格の世話人一人いた。
 「10時半から会堂で世話入会を開きます」
 触れはその日の朝食中に、中央の通路を叫んで駈けぬけた。
 あのことだ!と誰もすぐうなずき合った。心中期するものがある。いまもそのことでケンケンガクガク、口角泡を飛ばす者がいた。昨15日早暁、会室内のラジオが西の浜へ持ち出され、木ツ葉みじんに打ち壊された。患者慰安のため福島前香川県警察部長から寄贈の、島でたった一つの文化財で患者が初めて目にし、初めて聴いたラジオである。高価な五球式の大型セットで、ピカピカ光っていた。
 そのラジオが会堂正面上段の中央左よりに据えられていた。来客や所員は上段の間の椅子にかけ、起ってお話になり、患者はそれより約30センチ低い板床に座って拝聴する仕組みである。上段は無毒地帯、下段の患者席は有毒地帯とされていた。その上段の患者が手をふれてならない大切なラジオが、一人か二人か何者かによって夜陰ひそかに持ち出された。不届きな話である。
 年中、早朝に海岸を回わる者がいた。波に打ち上げられた流木を拾ったり(ヒチリンに焚く)、ときに珍しいものを見つけてきた。不自由な手でつまみ上げ、ゴム風船かと口で吹いてふくらませている。それを見て、はたの者がどなった。「バカ、ルーデサツクじゃないか」
 その朝の海岸回わりが、まず砂の上のラジオを発見した。西の浜に会堂のラジオが出ているー。注進によりソレッとばかり、物見高いのが駈けつけた。ラジオは会堂裏の砂浜に生えた松の根元に、行儀よく西向きにおかれていた。次に行った者が見だのは踏んだり蹴ったりされて微塵に砕け、もはや原型はなかった。そのまた次に行った者は給品所(後の事務分館)の多田所員が患者に囲まれながら破片の一つを手にして、なさけない顔をしているのを見た。そのまた後に遅れて行った者の見たのは、砂地に残る足跡ばかりであった。多田所員が壊されたラジオの一片残さず拾い集めて、持らかえったのである。だれが持ち出し、だれが踏んだり蹴ったり、憎い親の仇のようにして壊したのか。いっさい不明である。
 ではなぜ寄贈品の大切なラジオを持ち出して壊したのか。皮肉なことに実はラジオが壊されたと聞き、一同は喚声を上げ、手を拍いて狂喜した。ザマァ見ろ!と、もはやこの時点で所当局に対する日ごろの鬱積した不満が爆発し、それは怒りとなって燎原(りょうげん)の火の如く島中に炎々と燃え広がっていた。
 ラジオを持ち出した者も壊した者も、すっかり覆面の英雄となった。よくやってくれたとその勇気を繰返したたえ、当局に対する怒りを互いにあふり立てた。なるほど寄贈されたとうざは、3回か5回かけて聞かせた。ところがやがて忙しい、暇がない、こわれていると口実をもうけてかけようとしない。頼めば叱り飛ばした。娯楽といえば碁、将棋だけである。みながラジオを聞きたがるのも無理はない。入所して5年10年はザラで、開所以来20年になる者も数人いる。せめてラジオと願うのは人情で、隔離されて外に出られない者ばかりである。ラジオは夢の夢であり、あこがれの外の社会の声であった。それをきかせないばかりか、来客のあるたびに所長が係長(後の事務部長)がその他の所員が、ラジオの前まで案内し「いつもかけて聞かせています」とカッコいい説明をする。きいた患者は腹を立てた。「道具に使う飾りものならブッ壊せ!」となった。
 「職員は官僚的で患者に接するにも、中には人間扱いしない者があり、支給品など放り出して渡すといった、まるで罪人扱いにする状態だった。また肉親や友人が面会に来た時など、病者同様の扱いを受け途中で引っ返す者もいた。この一事で処遇の万事が知れると思う(1967、青松2月号「島の今昔」から半田市太郎)」
はからずも一台のラジオが、離島の歴史を大きく書き変える結果となった。

世話入会は1時間余で終了した。帰って来た世話人は室員に報告する義務がある。にもかかわらずしなかった。自分の箱膳を取出し、黙々と遅れた昼食をとり始めた。先に食べおわり、室の中央の囲炉裏によって報告を待つ連中が声をかけた。
 「ご苦労さん、会堂は寒かったろう」
 「ウン」
 「話はやはりラジオのことかい」
 「まあな」
 いっこうに乗って来ない。期待していただけに腹を立てた。もったいぶりやがってー。
 世話人たちは口止めされていた。四時から患者総会を開く予定だから、それまでは話さないようにと。いわば世話入会はそのための手続き上、承認を求められたに過ぎなかった。
 そのとき、室の間を触れ人が大声で駆けぬけて来た。
 「4時から総会を間きます。重大な相談ですから全員出席して下さい」
 そうこなくちやー。総会の知らせにまたケンケンガクガクの蒸し返しとなった。やれ、やれと何をどうやるのか、とにかくやらなきゃと、一同心中に突上げるものを感じて興奮した。
 4時10分前、汽車のレールが鳴った。カンカンカン。患者総会だ、ソレ行けと座布団を抱えて一同詰めかけた。病室のベッドから起てない者、少数の風邪で臥す者を残して全員である。火の気のない寒中の会堂が熱気でむされ、座布団なしで床板に座っても寒くなかった。上段の所員席にチラと目をやり、もはやラジオは無いと知りつつ、確めて安心する者もいる。
 1月だから暮れるのが早い。会堂の両側の窓には松の梢がのぞく。あまり好い天気でなく、隅はうす暗い。風が出て松の技が鳴り、砂浜を洗う波音がきこえた。
 正副総代と娯楽部正副会長以下役員総辞職の説明があり、その承認を求められた。娯楽会は養鶏や売店経営など、事業と慰安娯楽関係をつかさどり、政治的ではないが総代職の進退と連動する習わしであった。双方とも自主的な一般選挙によって選ばれたが、自治会成立後と異なり、当局が管理上の便から認めた機関にすぎなかった
「該(ガイ)理由ハ多年小林所長以下所員ノ官僚的態度並ニ不誠意ナル処置二村シ患者間内二不満ノ気運醸成シ所内改革運動ノ世論が漸次拓(タイ)頭シ来リシガ遂ニラジオ破壊二端ヲ発シテ最高潮二達シ総代トシテ世論ノ趨(スウ)向ニカンガミ此ノ際善処シ能ザルヲ以テ辞職ヲ申シ出デタルモノナリ(実行委員会日誌)」
 総会は異議なく全役員の辞職を承認し、つづけて次の3つを議決した。
 一、改革運動を推進するにあたり、410余名連判状に署名捺印して一致団結の実を示す。
 二、役所の改革を促すため、全作業を返還する。
 三、目的達成を図るため、代表として実行委員10名を選出する。
 ただちに実行委員10名の選挙に移り、最高点者を以て委員長とした。開票の結果、次の者が決定した(票数順)
  石本 浚市   上本 隆重(次点)
  小島 牧羊   北池 為一
  大川 綱一   佐々木 光利
  近藤 平吉   朝倉 要三郎
  東条 政芳   垰  八十二
 石本委員長、上本副委員長である。石本30歳、上本34歳であった。
 石本は起って委員長受諾の挨拶と共に、所信をのべた。当局の不誠意を鋭く叱責して役所にも良くなってもらいたいが、患者自身も大いに自覚しなければならぬ。この島こそわれらの愛する第二のふるさとである。より明かるく、より美しい島にするため、一致団結して努力しようと力強く呼びかけた。そして次の三つを一同に固く約束させた。
 一、直接行動をいましめる。
 二、軽挙妄動(けいきょもうどう)をいましめる。
 三、結束を固くして所期の目的を達成する。
 実に見事な大演説で、謹聴した一同盛んな拍手をもって名委員長の誕生を祝福した。50年後の1980年2月号「青松」は不幸にして彼の追悼号となった。その中で曽我野一美は思い出を書いている。
  「昭和24年のことであったろうか。食糧難でヒイヒイ言っている時に、進駐軍から給付された砂糖を当時の用度係の職員がネコババした事件があり、園内は大騒ぎしたものである。その時、会長顧問という立場にあった石本兄が自ら買って出て、患者大会の席上、見事というか、すばらしいというか、一大弾劾演説をぶった。その論旨はするどく、山あり谷あり、大きな声できめつけるかとみれば、さながら赤児をあやすような低い声になり、それを繰返しながら、会衆を一堂に凝結してゆく論法の冴えは感嘆するばかりであった。近時、テレビなどを通して観る国会の議論の中でさえ、あの時の石本兄の演説にまさるものを耳にしたことがない。石本兄は、いったん事があれば、はげしい気魄で押しまくることのできるアジテーターの素質を身につけた人物であった」
 20年の時代差はあっても、よく石本の人柄と、雄弁を伝えている。
 石本は4名の顧問を推薦すると共に、各室から2名互選によって実行委員の補佐員を選ぶことを諮(はか)り、承認を得た。これは実行委員と各室との連絡と、意志の疎通をはかるためであった。外はすっかり暗く、あちこちの部屋のにぶい灯芯の明かりが、昨日と変わらぬ光を窓に映しでいた。一人々々の力は小さくても、結集すれば大きな力となる。それは単なる400倍でなかった。改革運動は実行委員を頂点に、いよいよエンジンがかかった。

  実行委員と顧問はその晩、2名の見張りを立て、夜の更けるのを忘れて戦術を密議した。適当な会議の場所がなく、売店が使用された。現在の4寮と20寮の間に淡青のペンキ塗りの一棟があり、12坪半の西半分が図書室、東半分は売店に使用した。その夜の決議事項は次の通り。
 一、全作業の返還。
 、小林所長、乙竹係長以下多田会計主任、末沢戸籍係、前田被服係、寿大島九船長、後藤、木村両雄開場係、多田給品所員、寺竹庸人、喜田大工職、以上11名の更迭要求。
 三、小林所長以下所員の更迭ができなければ、岡山県邑久郡長島国立らい療養所愛生園へ全員転送を要求。
 その理由を17項目あげた。しかしこれは本県知事か、それに代わる責任者の立会いがない限り、公表しないことにした。
 1、患者に対する職員の態度が不誠意なる件。
 2、寄付金の件(寄付者名、金額、使途一切不明)。
 3、ラジオの件(15日早暁の一件)。
 4、臨終者、急病人の件(往診は絶対にしない。呼んでもよういに出ず、注射を患者の看護人に打たせて済まそうとする)。
 5、電灯の件(発電機の故障が度々で、すでにその当時、長い間電灯がつかず油皿で灯芯を燃やしていた。このときはついに7ヵ月におよぶ)。
 6、患者の事業に関する件(利益金を貧困者に支給する互助金にあてていた。新しく養豚を始めたいが、汚ないといって許さず)。
 7、正月3日間治療全休の件(特別の病人や、特別の傷は診てもらいたい)。
 8、慰問品の件(寄付者名、数量ともに不明。いろいろのうわさが立っていた)。
 9、面会者に対する船長の態度の件(患者と同様に人間扱いしない)。
  10、被服の件(あわせ2ヵ年、包布2ヵ年というように期限つき貸与で、その期限が守られない。貸与でなく支給制を希望した)。
  11、患者殴打の件(多田給品所員がわずかのことに腹を立てて殴打す)。
  12、病室木炭支給の件(患者の煮炊きと夜間の暖房用に増量してほしい)。
  13、災害に関する件(台風時などに所内がどうなっていようと、一切見回わりをしない)。
  14、給品物支給の件(投げてよこす他、たびたび必需品がきれてない)。
  15、修繕に関する件(決してすぐ直そうとしない)。
  16、娯楽機関不設備の件(碁、将棋盤がいくつかあるだけ。ラジオ位はきかせてくれ)。
  17、外部に対する虚偽の宣伝(壊したラジオに限らず、夕食の菜は沢庵だけなのに、他にあるような説明をする)。
   (注、当時の処遇や所員の態度、在り方が知れると思い、あえて17項目全部列記した)
 そして実行委員たちは翌朝ただちに患者総会を開き、協議結果を報告して了解をとりつけ、その場へ小林所長の出席を要請し、一同の決意を告げる。そのように間髪を入れず事を運んで、内部の動静が事前に当局側にもれるのを防いだ。


   


「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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