第一章 島のあけぼの
2 連判状
要請に応じ何事も知らぬ小林所長は乙竹係長と共に出席した。明治44年京大医学部から医長として就任し、やがて所長となって20年、診察はまず睾丸から、人呼んできんたま所長。その患者の睾丸の研究で2年前学位を得た。色浅黒く偉丈夫である。
17日のこのとき所長はおそらく、15日朝のラジオの一件は報告を受けており、仕方のない連中だ位には思っていたろう。しかしそれ以上の動静は知らなかったはずである。
所長の姿に一同は息を呑んだが、その静寂はたちまち万雷の拍手となって炸裂(さくれつ)した。所長は本能的に、初めていつもと違う異常な気配に圧倒されて愕然(がくぜん)とした。実行委員会日誌はその様子を、次の如く簡潔に書き残した。
「一同大拍手ヲ以テ之ヲ迎フ。但シ拍手ハ歓迎ノ意ニアラズ。所長顔色ヲ失ヒ狼狽ノ体歴然タリ」
「お忙しいとこをお呼び立てして相すみません」
委員長の挨拶に所長はようやく人心地を回復した。委員長は413名の連判状を示して全作業を返還し、所長以下11名の所員の更迭と、それができないなら全患者の愛生園へ転送方を要求した。
所長にとってはヘキレキですっかり動顛(どうてん)した。
「三宅も同意か」
実行委員の背後にいた顧問筆頭の三宅官之治に目をやった。三宅は永年総代を務め、患者ばかりか所員の間にまで大きな人望があった。ときに58歳。
「同意であります」
丁重に答えた。若い者がいくら騒いでも三宅だけはと、望みを託した。それがブルータス、お前もかである。所長には足元の崩れ去る思いであったろう。
「諸君の意のあるところはよく分かった。私も賛成です。よろこんで諸君を長島へお送りしましょう。即日手続きをとります」
あとで気がついたのか、知事や内務省の意向がと二、三押し問答のあった末、所長は憤然と退場した。事の重大なのに拘らず、まことにあっけない5分か7分の幕切れであった。
「ほんとにすぐ手続きをとるんだろうか」
まともに受けて不安がる者がいた。
「バカ、できるわけがないじゃないか」
横っ腹を肱(ひじ)で小突かれた。
一本気の所長にくらべ、係長(大正7年以来)には警察署長の経歴がある。書道に長じ旧派の俳句を患者の有志に教え、灸点が得意で日曜には高松から別船を仕立てて灸点客が来た。ふっくらと肉付きよく宗匠然としていた。
係長はこのまま引き下がっては大変だと思ったろう。上下段の境界には高さ7、80センチの太いタテ格子の水柵が立つ。その柵越しに慣れなれしく話しかけた。
「きみたち、だしぬけにあんなことをいって、大島のなにが気にいらないのか、係長としてでなく、ぼく個人として理由を話してくれないかね」
一つ心を公人と私人に使いわけるのははやらない。日誌には「快クー蹴ス」とある。係長はとりつくしまがなく、きびすを返して出口へ向かった。その背中へ患者一同期せずしてバンザイを浴びせた。バンザイはバンザイを呼んで堂内にこだまし、ために470uを支える会堂の棟木がブルブルふるえた。散会して外に出ると大島中が新鮮に見えた。空気はさわやかで松のみどりは生きいきとし、足は羽が生えたように軽かった。
その晩、大野鶴一ほか青年有志が、自発的に夜警を申出た。石本は重大なこの時期に、もしものことがあっては大変だと、申入れをよろこんで受入れた。この大野たち有志の夜警が切つ掛けとなり、翌日の臨時青年団誕生となる。
「大島改革運動の重大性にかんがみ、目的達成の補助機関として自警その他、この運動の一切に対し、実行委員の援助を以て目的とす」
読んで字の如くである。以後臨時青年団は自治会創立の過程で、大きな役割を果たす。実行委員会の周到な思慮と決断力、青年団の若い機動的行動性、そして全患者の旺盛な奉仕精神が一体となり、改革運動の前途に横たわる障害を一つ一つ克服していった。
第一の障害は作業の返還を所員が肩替わりしてくれれば問題はないが、いくら折衝を重ねても手間が無いでやろうとしない。無理のない話で、更迭は辞めてくれである。そんなにまでいわれて、やる気にならないのは当然である。病室看護、不自由室付添い、食事運搬、急病人の担架、風呂の水汲み、風呂沸かし、漬物配達と数十種の作業の、どの一つをとっても無くてすむものはない。委員たちは個人に頼んだり、団体的に可能な作業は青年団の奉仕でしてもらった。
いっぽう、小林所長はよろこんで愛生園へ転送すると公言しながら、そのご姿を見せない。作業返還、所員更迭、愛生園転送と三つの要求は宙に浮いたままである。生意気なこといったって困るのはてまえたちだと、音(ね)を上げるのを待っているー。そんな不安を覚えた委員たちは、外部からの促進策を考えた。新聞の力を借りて事の次第を世に訴えようと、早速、四国中国管轄ハ県から新聞社名をひろい上げた。
大毎高松通信部 香川新聞社
大阪朝日新聞社 土陽新聞社(高知)
徳島日々新聞社 海南新聞社(松山)
山陽新聞社(岡山)松陽新聞社(松江)
関門日々新聞社 中国新聞社(広島)
改革運動を決意した理由を10通の封書に書上げた。さてどこから投函するか。療養所の規則では給品所を通し、消毒して出すことになる。しかしそんなことをしたら没収されるにきまっている。さいわい一女が晩の大島丸で退所する。ひそかに居室を訪ねて事情を話すと、みなさんのためだから責任をもってと快諾してくれた。
その一女は五〇年後のいま(1980、6月10日)77歳。不自由になって再入園し病室のベッドに仰臥している。
「うちをなー、大島丸の後ろへ連れてってあの人が、それあのひと。そうだ、そうだ、あんたのいう通りじゃ末沢さんが、知っていることをみな話せ、手紙をもっているじゃろうと、なんべんもいうの。うちが何も知らん、手紙ももっとらんいうと、ウソをいうとかえさないぞ。大島へ連れ帰るというた。でもうちはいわなんだ」
「それで10通の手紙をどこへかくしていたの」
「腰巻きの上のサラシの裏に縫いこんだ。ここ、ここ」
と一女は片手で布団の上から腹をたたいた。
「−ー駅の便所へ入って手紙をとり出し、あっちのポストに2つ、こっちのポストに3つと入れた。あんた、ようきいてくれたなあ。おおきに、おおきに」
訪ねてくれたのがうれしいと泣いた。
1年分の沢庵漬けは当局が大根と糠(ぬか)と塩を買い、患者が作業で漬けこんだ。たばねた葉つきの大根が帆前船に積まれて海を渡り、毎年12月になると島の東海岸に着いた。
冬晴れの空に滑車の音をカラカラ響かせて、大きな帆を下ろした。それを見るとやがて今年も暮れるかと、誰もいちようにそこはかとない感懐をいだいた。1つか2つの小さな子を持つ夫婦が船頭であったりした。母の後を追ってヨチヨチと船端を行ったり来たりする姿を見ると、子の産めない女や、産んでも故郷に残してきた女たちには、たまらないらしくいつまでも海岸に立って見とれた。それは家庭の持てない男にも同じで、仲の好い共嫁ぎの健康な夫婦の姿は、胸苦しいまでに羨ましかった。
注、所内の内縁関係が黙認されてから妊娠すると、子供は欲しいが産むわけにいかず、いや産んで育てたところで白分ら夫婦と同じ宿命に泣くかと思うといとしくて堕(おろ)した。しかしそれは往々にして女の病気が動いて悪化するので、いつからとなく結婚すると医者の勧告もあって男が断種手術(ヴァゼクトミー)した。睾丸から通ずる輸精管を切って結紮(けっさく)する手術である。医者は性交に変わりないといったが、おおかたの経験者の話では最初のころはむやみに勃起し、後には早く男の精力が衰えるという。かなり個人差があるようである。
大根船は桟橋がないため接岸できず、船から長いあゆみ板を砂浜に架け、その上を両手に大根を下げ、調子をとって走り渡った。あゆみ板が僥う(しなう)ため、ひとつ調子をとりちがえると、海に跳びこんでズブ濡れになった。この船からの大根上げにも頼まれて、ときに患者が出た。
砂浜に上げられた大根は食事運搬用の大八車に積んで運ばれ、松の幹からみきへ張りめぐらされた針金に掛けて干す。治療室へ行く道の両側も、給品所へ行く道の両側も、すべて大根ののれんである。あす知れぬ身の来年の備えであった。朝のみそ汁は元より、昼食の菜のだしにも沢庵がいる。まして菜といってない夕食は、沢庵が唯一の菜なのである。しかし400人の10%40人は、この沢庵を食べ終わるまでに死亡する。
から風に吹かれて適当に干くころを見計らって下ろし、また大八車で漬物小屋へはこび、首の葉を切り落として漬込んだ。酒など仕込むこがという火桶に幾つも。毎年のことだから慣れている。早く食べる分、遅く食べる分と干加減を選別し塩加減をし唐辛子もちょっぴり加えて重しの石のかげんもした。400人の1年分だから相当量であるこの沢庵大根を毎朝二人の配達人(1日3銭の作業)が、その日の分を各室に配って歩く。室の炊事当番が起きると、もはや井戸端におかれて香ばしく匂った。
その年は12月に大根船の来るのが遅れ、いまだ漬けないうちに年が明けて改革運動となった。大根はいぜんとして松の下ののれんである。干きすぎるとかたくてしわい。ころあいが大切である。全員愛生園へなどといっても、本気で行くとは思っていない。
「はやく漬けんと干きすぎて水がのらないぜ」
とみな気をもんだ。放っておけず実行委員も当局に交渉するが、いっこうにラチがあかない。ついに患者総会を開いて乙竹係長を呼び、その席上で作業の肩替わりと大根を早く潰けるよう強く要求した。係長は言を左右にやると言わない。どうやら改革運動が一番恐れた、長期化の様相をおびてきた。
翌朝、実行委員たちは思いきって図書室を本部として使用した。代わりの図書室には前の道路をへだてて西側の、当時散髪場になっていたホータイ巻き場を当てる。図書室が本部なら患者地区のほぼ中央で、南北からの連絡に便利である。他所で会議を開かなくてすむし、第一、10人の実行委員が各室に分散していては、相談や連絡に不便である。火鉢を一つ入れてヤカンを掛けておけば、熱いお茶ぐらいは飲める。その後転々としたが、これが在園者事務所の始まりである。
本部ができてホッとしていると、所員がきて午後1時から係長が会いたいという。昨日の患者総会が少しはこたえ、やる気になったかと思っていると、また所員が来て係長さんと会うのは明日にしてほしいと伝える。何だ、委員たちはあてが外れてガッカリした。
そこへ青年団長の大野が、本部のできたのを知ってやってきた。いつまでも入浴や散髪を放任するわけにいかないと話すと、大野は団員の奉仕でどちらもやるという。
「ついでに大根も漬けましようや。みなが心配しているから」
この若い元気な言葉に釣られ、委員たちも昼食後いっしょにやることとなった。
手あきの者は出てくれるよう触れて回わると、団員は元より女たちまで大勢加勢に出た。針金から大根を下ろす者、はこぶ者、首の葉を落とす者、漬込むもの、手分けして互いに冗談をいって笑い声を立てながら、さしもの大根も晩までに見事漬けおわった。(漬物小屋は図書室になった散髪場の裏側にあった)
すでに青年団の奉仕で、ひさしぶりの風呂が沸いている。
注、水道の蛇口をひねると水が出るのでなく、手押しポンプで井戸水を汲み上げる。男女の浴槽と使い水を満たすのは大変な作業であった。
翌朝、係長から11時に会いたいと連絡があった。はたして何の話だろう。委員たちは少し早めに行き会館で待った。やがて係長は見知らぬ背広姿の紳士と話しながら来た。紳士は40すぎに見えた。色が白く静かな人柄である。入り口で係長は身をかがめ、上履きを揃えたりする。おそらく来客なのだろう。
係長はまず昨日の会見中止を詫び、連れの紳士を紹介した。香川県の清水衛生課長であった。課長は上下段の境界まで進み出て
「実は今朝の大毎にみなさんの改革運動の記事が出ておりまして、それをご覧になった長官が、清水、きみ行って話をきいて来いとおっしやいますので、まいったようなわけでございます。どうか、みなさん、膝をくずしておらくにして下さい」
課長は下段の板床に座ってかしこまる10人の委員に、やさしく笑顔で話しかけた。
「−−そんなわけでありますから、みなさんも懇談でもするような軽い気持ちで、いろいろお話し下さったらと思っています」
この初見のくだけた態度は一同に好感をあたえた。と同時に委員たちは初めて、退所する一女に託した手紙が無事新聞社に届き、大毎に載ったのを知った。これで改革運動が単なる所内事でなくなった。口にこそ出さぬが委員たちは、ことが思惑通りに運んだのをよろこび、目と目でうなずき合った。
離島のことでその日の新聞は(大朝、大毎、香川の三新聞一部宛入っていた)高松から大島丸で来る。早くて10時、おそいと午後になる。課長といっしょの船で着いたとしても、持って上がって仕分け、給品所に回ってそれから渡される。だれもまだ見ていなかった。
委員長が起って挨拶した。簡単に改革運動をするに至ったいきさつを述べて課長の来島を謝した上、問題が重大なので全患者の前で話したいと諮(はか)った。課長も同意し、時間は12時半からとした。
大毎(昭和6年1月23日)朝刊本紙。見出しは二段組み四行である。世捨島にも/時代の波/大島療養所患者が/長島へ転送要求。
「世捨島のストライキ/四国中国八県連合のレプラ患者収容所香川県大島の第四区大島療養所の収容患者四百十余名は団結して去る十八日連署の上所長小林和三郎博士に決議文を突きつけて岡山県邑久郡長島へ新設の国立療箇所愛生園へ転送方を要求したが十九日収容所長会議で上京を控えていたため一まず鎮撫して上京したが全患者は所長の帰来後さらに転送を要求することとなった。
原因は醸成してきた小林所長以下所員の患者に対する官僚的態度の不満から待遇と食料の改善を叫び、転送の要求を世捨島の別天地であげたものである(高松発)」
世捨島、収容所と批判の余地はあるが、これが当時の世間の見る目であったろう。愛生園へ転送が主目的の如きも気にいらぬ。まして暴動でもないのに、鎮撫して上京中は意図的である。慰撫でも慰留でもなく鎮撫して上京した当人が、改革運動中二度と患者の前へ顔が出せなかったのは皮肉である。記事の文面から察せられるのは、実行委員会からの手紙と、所長か係長かの話をもとに書いたものである。
大島が世捨島や収容所である限り、人権の回復は期待できない。この世に世捨島があってはならない。世捨島を否定するのが改革運動であった。この運動は50年後のいまも、形を変えてつづいている。
新聞のとりもつ清水衛生課長の来島で、将棋なら千日手になっていた改革運動に、ようやく解決への曙光が射した。
しかし患者であるための差別の壁は厚かった。
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