わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第1章 離 郷

 5 悲しみの井戸            故 平 田 仙 造

 私は若いころ船乗りをしていた関係で、朝鮮の方にも行き、両親に大変心配をかけていましたが、そのうちに母親に死別れ、私も体が悪くなり、医者に診てもらったところ、ハンセン病であることを宣告されました。
 また昭和2年には父親とも死別し、途方にくれているところへ、妹の時子が、職場事故で主人に先立たれ、私の家に帰って来てお産をしました。
 こんなわけで、私が病気であるために生活にも困るようになり、時子にも働いてもらうことを相談しました。すると時子は、
  「働きに出てもいいけど、病気の兄さんと乳呑み児を置いて行くのがつらい」
 と言うので、私は、
  「あとのことは心配せんでもええが」
 と言いましたが、やはり気がかりなのか、働きに出ようとはしませんでした。
 その後、私は目を患い、一畑薬師にお参りしておりました。ある日帰ってみると、時子がいないので、驚いて近所の人にたずねると、姪の薫をよその家に預けて働きに行った、ということでした。
 私は、たとえ盲目になっても、子供は育てようと思っていただけに、びっくりし、早速薫を預けたという家に行ってみると、幸か不幸か、その家の人は留守でした。日も暮れかかっていることだし、困ったことになったと思い、何気なく座敷をのぞいて見ると、おしゃぶりをくわえた薫が目につきました。悪いこととは知りながら、私は夢中で薫を抱きあげ、黙って連れて帰ってしまいました。しかし、これはあとで問題になりましたが、私がどうしても育てると言って、先方にも諒解してもらいました。
 さて、連れて帰ってはみたものの、私も仕事をせねばならず、これからどうして育てようかと思案にくれました。けれども、ミルクを呑ませるとよく呑むので安心し、天気の日には浜へ網引きに背負って行ったり、山や畑に行けば、籠に入れて木の枝に吊るし、虫にさされないようにして、仕事をしました。
 このように、手の中に入れてもむように気を配りましたが、一番困ったことは、夜、親の乳房を求めて泣くことでした。ミルクを温めて呑ましても泣きやまず、近所にも迷惑になるので、浜やお宮の方へ連れて行ってあやしたりしました。このようなことが毎日続くので、私も疲れてしまい、あの時連れて帰らなければ良かったのにと後悔したり、このように苦労するのであれば共に死のうか、と何度も思ったりしましたが、時子が私以上に苦労していることを考えると、それも出来ず、気をとりなおして働きました。
 こうして、だんだん日が経つうちに、薫もミルクや重湯にも馴れ、這うようにもなってきたが、そうなればなったで放っておくことも出来ず、ちょっと畑へ行くにも柱につないで、おもちやなどを与えて行くことにしました。大きくなるに従って素直によく言うことを聞くようになり、時子が会社から時どき帰って来ても、私を親のように慕って離れないので、私も一層可愛くなり、ますます力を入れて、六歳まで育てました。
 そのうちに、仕送りをしてくれていた時子が再婚することになりましたので、薫の先ざきのことを考え、心を鬼にして一緒に連れて行ってもらうことにしたものの、別れがつらく男泣きに泣きました。そして、当分の間は何をしても身が入らず、一人淋しく暮らしておりましたところ、警察から、療養所に行くよう、再三勧められ、こうして居るよりいっそ療養所へ入ったほうがよいのではないか、と決心し、時子や薫に会って先祖のことを頼み、故郷をあとに青松園へ来ました。
 それから早や25年経ち、あの時小さかった薫も3人の子供の母になっているとのことで、一度会いたいと思っておりましたところ、園内スピーカーから、
  「平田さん、面会です」
 との呼び出しがあり、さて、面会とは誰だろうか。私は故郷を出て20年余りになるが、便りもめったになく、誰が面会に未でくれたのだろうか。とっさに信じられず、驚きました。故郷に何かあったのではなかろうか。一抹の不安と嬉しさを感じながら、足早に面会所に行ってみました。
  「おじさん、薫です」
 と、姪の声がして、私は思わず、
  「おお!」
 と言ったまま、声も出ませんでした。それから、色いろ故郷の話しをしているうちに、発病当時苦労した、水汲みのことが思い出されて来ました。
 それは、私が家にいたときのことですが、病気は進み、頼る人もなく、1人で炊事をしておりました。ある日のこと、部落の人から、井戸の水を汲まさない、と言われ、困りはてて川の水や田に引く水を呑んだりしていました。しかし、伝染病になっては困るので、2町あまりの坂道を通り、谷の水を汲んで使っておりました。雨の日や雪の日は旅支度のような格好をして出かけているうちに、足に傷が出来、熱も出だしたので、近所のおばあさんに頼んで、もう一度どうかして井戸の水を汲ましてもらえるように、とお願いしたが、聞きいれてくれませんでした。そこで、やけになった私は、あの井側は私たち親子で、遠い所から船で買って来て、寄贈したものだから……、と必死に頑張ってみましたが、多勢に無勢で、また川の水を呑まねばならなくなってしまいました。それを見かねて近所のおばあさんが、夜こっそり汲んでおいてくれたこともありました。
 ふと、われにかえって、薫に、あの井戸のことをたずねると
  「実は、その話をしようと思って来たんです」
 と言いましたので、私は、はっと胸にこたえるものがあって、改めて姪の顔を見なおしました。薫の話によると、らい病などの作ったものは汚らわしいから、新しいものにしようといって、井側をこわして川に流し、取り替えようとしたが、出来上らないうちに、それを提案した人が首吊り自殺をしてしまい、その人の35日も来ないうちに、今度は奥さんが川に落ちて死に、長男は胸を病むなど、不幸が続くので部落の人が、どうしたことかと噂しておりました。それからも、井戸に関係している人が次つぎと死ぬので不思議に思い、私を可愛がってくれていたおばあさんに、部落の人がたずねたそうです。するとおばあさんが、それは、仙造さんの病気が重なり、死んで化けて出るのではなかろうか。先祖の供養をして、生きているか、死んでいるか、問い合わせてみよう、といって、手紙を出したところ、帰れるように元気でいる、という返事が来たので、部落の人たちは、戻って来られては困るから、早く面会に行ってくれるように、頼まれたのだといいます。
  「それで、突然来たんです。伯父さん、一度、帰ってみる気はない?」
 と薫は言ってくれました。しかし私は、故郷の様子もよく分ったし、家もないのでもう帰る気はないから、部落の人たちに、安心して下さい、とことづけしました。
 今では私も年をとり、老人になってしまいましたが、あの井戸水でつらかったことは生涯忘れられません。そして、部落で唯一人親切にしてくれたおばあさん、どうか、いつまでも元気でおられますように祈っております。

 




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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