わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第2章 失 明

 14 靴下            滝本 サトエ

 奈良のお水取りも済んだというのに、まだ寒いある朝のことであった。急いで病棟に行こうとして私は治療棟の前まで杖を運んでいたとき、自転車が近づき、
  「おっさんは、どんなか」
 と言う、高橋さんの大きな声がした。
  「えェありがとう。夕べ病室に消灯までいたんだけど、熱が39度もあって大分えらそうだったけどね。今朝は熱が下っているか、どうかと思って、行っているところなの」
 と言うと、高橋さんは、
  「そら、いかんのー」
 と言いながら、自転車の向きを変えて1病棟の玄関まで連れて来てくれ、
  「サトエさん、左の足だけしか靴下をはいてないよ」
 と言った。私は、
  「えっ?」
 と、思わずとんきょうな声を出し、あら、どうしたのだろう、と思っているうち、高橋さんは、
  「おっさんを大事にな」
 と言い残して、自転車で走り去った。私は確かに靴下を両足にはいたつもりだが、どうしたのだろうと、狐につつまれたようで、床を離れてからのことを思い出してみた。
 昨夜は入室した夫のことが気になり、なかなか寝つかれなかったが、いつの間にか眠ったらしく、はや看護人が来て掃除をする物音がしていた。私はびっくりして起き出し、早く病室へ行かなければと、順番に重ねておいた衣類を着て、最後に、手も足も麻痺しているので、感じのある唇でソックスのゴムを探り、両手の親指を中に入れ、かかとの入るふくれた所を確かめ、左の足にはき、右足にもはこうとそこらを探ったが、何処にまぎれこんだのかわからない。それで1枚ずつ布団をたたみ押入れにしまうと、田の草を取るようにして探しはしめた。隅から隅まで探しても、4畳半だが幾ら探っても手にかからない。やっと手にかかった時には病人のことが気になり、あせっていたせいもあって、唇で確かめてはいたまでは分ったが、さて、どちらにはいたかを思い出せない。
 そのうち、ハハー、はいた方を忘れて、その上に重ねてはいたのではないかとふと気づいた。私は玄関を入り、廊下のガラス戸に背をもたせると、左のつっかけを脱ぎ、そっと口で確かめてみると、やはりソックスのゴムがきちんと重なっていた。私はふき出したいほどおかしくなったが、でも朝から病棟の廊下で笑うわけにもゆかず、笑いをおしころした。それにしても重ねてはなかなかはけないのに、こんなにきれいにはけたことは自分でも不思議に思えた。このまま病室へ入るのは照れくさい気がしたので、いっそのこと脱いでしまおうと思い、右手の親指を中に入れて脱ぎ、もんペのポケットヘソックスをまるめて入れた。
 私はポケットをたたいて入っているのを確かめながら、夫のいる病室のドアをあけ、何事もなかったような顔で、
  「どなたさんもお早うございます」
 と言うと、病人さんたちもそれぞれ、
  「お早う」
  「お早うさん」
 と言ってくれた。右側のベッドにいる岡谷さん、が、
  「旦那さんは熱が今朝はさがっちゅうぜ」
 と、高知弁でいたわるように言ってくれた。
  「あァそうね、ありがとう」
 と私は言いながら、夫のベッドヘ近寄り、
  「夕べは眠れたの」
 と聞くと、夫はうつ伏せのまま煙草をすっているようだったが、思ったより元気そうな声で、
  「夜中から神経痛がして、看護婦さんに薬をもらって飲んだが止まらず、とうとう朝まで眠れんかった」
  「そりゃえらかったなア」
 と私は言った。
 寮にいても夫はときどき、きつい神経痛が起り、その痛みをまぎらすために夜通し本を読んだり、川柳や手紙を書いたり、お茶を飲んだりしているが、真っ暗な病室ではそれも出来ず、余計耐えがたかったことであろう。
  「まだ痛んでいるの?」
 と聞くと、
  「ううん、夜明けになって痛みが遠のき、今は止まっている」
 と言ったので、やれやれ、と自分の痛みがやわらぐような気がした。きのうは何も口にしていないので、
  「おつゆに卵でも入れてもらって食べないよ」
 と言いおき、夫のことが気になりながらも、靴下をはいていない足にみんなの視線が集っているように思われ、そこそこに病室を出た。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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