わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

目次 Top


第2部 「灯台」の群像

 第2章 失 明

 15 雨に迷った杖            木 島 兼 治

 昨年5月末、不自由寮より共同の夫婦不自由寮34寮に移転して間もなくのことである。6月4日の朝より降り出した雨は、ますます大雨となり2、3日降りつづいたときのことであった。
 その以前から妻は病棟に入室していたので、しばしば足を運んでいた。その頃入室者の面会時間は午後8時までと決められていたが、その日はどしゃ降りのため、40分ばかり小止みになるのを待っていた。しかし止みそうもなく、しかたなく病棟を出た。自治会事務所の近くまできたとき、急に足くびの上あたりまで水がきた。これはてっきり道に迷ったと思い、2間ばかり後もどりして杖先であたりを確かめてみたが、迷ってはいない。これは排水溝がつまり、水が歩道まであふれていることが分り、脛までズボンをまくりあげて帰路についた。
 難関である29寮から34寮前の盲導線までは無事にきたものの、すぐそばの勝手口まではたどりつかず、どうしたはずみか、寮の横にある井戸のあたりに来ているらしい。内心慌てたが、苦心の末やっと勝手口にたどりつくことができた。ほっと胸をなでおろして部屋に入った。
 ところが吊ってある筈の蚊帳に手が触れない。他の人たちは蚊帳も吊らずに寝ているのかと思いながら、部屋の人たちの名を呼んでみたが、いっこうに返事がない。みんなよく眠っているんだなと思って、自分の寝床のあたりに行った。だがそこに敷いてあったはずの布団がない。冷たいものが背筋をはしった。私はどうやら隣の寮に迷いこんだらしい。当時隣りは空室になっていて、私はまだその寮の構造について話してもらったことがなく、1度も入ってみたこともなかった。私はとっさに自分の部屋と同じ建て方だろうと思い、手探りで出ようとしたが頭が混乱し、いらだっているので方向がたたず、あっちにいってはゴツン、こっちにいってはゴツンとやたらに頭をぶっつける。とうとう動けなくなってしまった。
 こうなると仕方がない。ここで1晩寝てやろう。夜が明けたら分るだろうと、部屋の真ん中に大の字になった。ところが蚊がむやみやたらに攻めてくる。眠るどころではない。閉口しているうちにふと押入れのあることに気づいた。その中に入って寝ようと思い、手探りで押入れに入って横になった。すると次第に気分が落ち着いてきたが、今度はいろいろな心配事が浮かんできた。若しこのまま寝こんでしまうと、起床のサイレンや朝食時間も分らないかも知れない。そうしたら、同室の人も私のいないことに気がついて騒ぎ出すだろう。いや同室の人ばかりでなく、多くの人にも迷惑をかけることになる。それこそ大変だと思って、また押入れから這い出して出口を探りはしめた。そのうちに食堂に出たらしく、飯台に向うずねを嫌という程ぶっつけ、台の上に四つんばいになってしまった。くそっー、空室なんかにどうして飯台を出しておくんだろうと腹を立てたが、それでも自分のいる位置の見当がついたので、土間に下りていった。しかし今度は下駄、杖、傘が分らない。這うようにしてさがしたあげくやっと下駄に手が触れた。
 外に出ると相変らずどしゃ降りの雨である。傘をさしているとはいうものの、破れから首すじや肩に雨は遠慮もなく降りかかってくる。早く帰らなければと気が焦る。やたらに歩いて行くと、花畠のようなところにふみこんだり、石垣に体をぶっつけ、たまらなくなって大声で同室の人の名を呼んでみたが、雨のためか通じない。そのとき、寮に取り付けてあるスピーカーの音がふと耳にはいり、それを頼りに近づこうとしたが、気のせいか、右と思えば右の方から、左と思えば左の方から聞こえてくる。それでもスピーカーの音を頼りに、むやみやたらに歩いているうちにようやくどこかの縁先に杖が触れた。縁をたたく杖の音に気付いたのか、中から、「木島さんと違うんか」と声をかけてくれた。その声は私の寮の人であった。やっと自分の部屋に入って息をついたのは10時過ぎだった。病室を出たのが8時40分頃だから、約1時間半ほど雨の中をさまよっていたわけである。
 盲人は3尺はなされると方向を間違えたり、一まわり廻されたりすると方角がたたなくなる、という話は以前から間いていたが、これほど困ったことは初めてであった。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


Copyright ©2008 大島青松園盲人会, All Rights Reserved.