わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第3章 絆

 23 餅            田 中 京 祐

 歳末になるとどこの家でも餅搗きが始まり、師走の人の心を一層慌しくさせるが、とても威勢のよいものである。島では年中行事の最後をかざる餅搗きが今年は人手不足のため、炊事場で働いている職員の協力を得て行なわれることになった。それは入園者の健康の低下もさることながら、軽症者が治癒してつぎつぎ社会復帰してゆくことが原因の1つであろう。
 私が入園した当時は会堂で餅を搗いていた。その頃会堂の玄関は東側にあった。もちろん今の縫工所も事務所も大島会館もなく、古い六病棟のあたりまで大小の松の木が点在していた。
 餅搗きの前日になると会堂の前の広場にかまどを築き、戸板で囲い、そこで餅米を蒸すのである。私は毎年このかまどを築く仕事を引き受けていた。餅は玄関の土間に四つの臼を据えて搗くのであるが、当時は園内スピーカーもなく、準備ができると係の者が各寮へふれて廻っていた。軽症寮の者は2班にわかれ、昼食後より夕食頃までと、夕食後からになっていた。米を計る者、水を汲む者、搗きあがった餅を丸める者、それぞれ仕事を分担して行ない、少年少女寮の子供たちは、でき上った餅を会堂の中に置かれた戸板の上に並べることが役目であった。
 こうして島をあげて行なう餅搗きは楽しいものであった。その後園内スピーカーが設置され、会堂から餅搗きの実況放送をしたこともあった。1人前にすれば僅かな餅も、700人ともなれば相当量にのぼり、われわれ病者にとっては、楽しいなかにもかなりの重労働であった。こうした餅搗きも昭和17年を最後に、戦争の苛烈によって青年団、婦人会などで結成された奉仕団の手によって、製造部で搗くようになった。
 正月三が日は白味噌の味噌汁が出る。自分で雑煮を炊けない者は餅を焼いて入れ、雑煮の気分を味わうのである。餅好きの私は餅のある間はたのしみだが、ぼつぼつ少なくなってくると淋しくなる。そうした頃を見はからったように母から小包みが届くのであった。開くと粟餅、きび餅、それに白い餅と、その一つひとつにまだ母の手のぬくもりが残っているようである。それを部屋の片隅で焼きながら食べるのはまた格別で、母の思いやりが身に沁みて、あれこれとふるさとのことが浮かんでくる。
 私か小学校の3、4年の頃であった。母が餅を焼いてくれ、焼いた餅の間に砂糖をはさみ、紙にくるんでくれたものをふところに入れ、学校へ持って行って大火鉢のへりに置いておくと、昼食頃には挟んだ砂糖が餅にしみこみ、とてもおいしくなっていた。
 今年もそろそろ母からの小包がくる頃と待っていたが、どうしたことか1月が過ぎても送ってこない。旧正月に送ってくるのかも知れないと心待ちにしていたが、それも届かなかった。何か変ったことでもあったのかと不安な気持ちでいたとき、1通の手紙と小包を受けとった。早速小包の方を開いた。しかし中味の餅がいつもと違っているので、変に思い手紙の裏を見ると、それは姉からのものであった。急いで封を切り読んでゆくと、私の不安が当り、母の死のことがこまごまと書かれていた。私はもう餅を食べる気にもなれず、押人れにしまった。母は毎年正月と盆には必らず手紙をくれ、その最後には決ったように ?早くよくなって帰っておいで、何時までも待っている”と書かれてあった。
 母からの小包や便りがこなくなってはや10年になる。餅搗きという行事も昔のように大勢で賑やかに搗くこともなくなり、島でも機械によって搗かれるようになった。餅好きの私も食べる数が年々減ってゆくのは年のせいであろう。今年も永らえた喜びに1人雑煮を祝っている。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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