わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第3章 絆

 24 辻さんと猫            籠 尾 ひさし

 2か月ぶりに病棟より帰り、少しベッドとは勝手の違った畳の上の寝床に、まだ少しけだるい体を横たえていた。向いの図書館の窓ガラスには、まだ夏の陽の残照がのこっているようで、私の目にもぼんやりと明るい。寮の人たちは映画があるので、早めに蚊帳を吊ってくれ、それぞれ出て行きひっそりとなった。病棟より部屋の方が静かでよいと、わたしは1人の孤独をたのしんでいた。台風の前ぶれだろうか、涼しい風が蚊帳の中を吹きぬけてゆく。わたしは入室中の出来事などをとりとめもなく思い出していると、食堂の辺りで猫の鳴き声が聞こえた。ふとわたしは、失明当時の失敗を思い出した。
 ちょうど今夜のように映画があって、1人部屋に残っていた。同じ盲人の渋沢さんがずっと病棟に入室していたので、映画の夜はほとんどわたし1人が留守番のようになっていた。わたしは、人の大勢集まる所は余り好まなかったので、部屋に一人残ることは、他の人が言うほどみじめでも淋しくもなかった。それに隣りの部屋には今井さんや、気の合った友人が2,3人いたので、映画の夜はほとんど隣りの部屋に行って雑談したり、お茶をよばれたりしていた。
 そのときも、隣りの部屋から馴れない手付きで探って帰り、床にはいってラジオを聴いていた。しばらくして、食堂の方で、カタコトッ!と、膳箱のふたでも開けているような音がしたので、またどこかの猫が来ているのだろうと思い、しっしっ、と2,3度追っ払っておいて、放送劇の続きに聴き入っていた。そのうちに、また、コトコト!、とやり始めた。以前から時どき、食堂の膳箱や押入れをあけて、魚など取られていることを聞いていたので、今度は障子をかなりきつく叩いてみたが、いっこうに逃げる気配もない。わたしは落着いてラジオを聴いている気にもなれず、いらいらしてきた。今度音を立てたらひどい目にあわしてやろうと思い、足音をしのばせて食堂へそっと探って行った。
 隣りの部屋はもう皆寝てしまったのか、ひっそりしていた。わたしは息をひそめて、音がするのをじっと待ちかまえていた。するとすぐそばで、コトコトやり始めたので、わたしは思いきり大声で、「こらあーっ」とどなった。
  「あァー、びっくりしたがなァー」という、思いがけない辻さんの声に、わたしはとび上るほど驚き、しばらくは口もきけなかった。
  「あァ、辻さんだったんかい、ご免、ご免。わしはまた、さっきから猫が来ているもんとばかり思ってたんで、今度来たらおどかしてやろうと思い、つい大きな声立てて済まんことしたなァー」
 と詫びた。人の好い辻さんは、特長のある大阪弁で、
  「なァーに、ええがなァー、ええがなァー」
 と、かえって慰めるように言ってくれた。
 辻さんは耳が遠い上に、最近目が悪く、治療棟に通うのにも困ると聞いていたが、今夜のように、すぐ側に立っているわたしが見えないほどとは思わなかった。耳が遠くても目が見えれば、わたしの近づいて行くのに気が付いたことだろう。やはり相当に視力が落ちているんだなァーと思い、気の毒やら恥ずかしいやらで逃げるように部屋に帰って寝床にはいった。辻さんを驚かした申し訳なさで、皆が映画から帰って来たあともなかなか寝つかれなかった。
 それから10年近くになるが、人の好かった辻さんも亡くなり、あの失敗を時どき思い出しては1人苦笑している。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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