わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第3章 絆

 25 雑草のように            東 條 康 江

 古里は遠くにありて想うもの……と言われていますが、私も古里を離れて年を経るごとに、壊しい数々の想い出が走馬灯のように蘇ってきます。幼い日を過した山や川、また友や恩師の顔も私の心の中に生きていますが、それにも増して最も大切な身近な存在として祖母がおります。
 祖母は今年91才になりましたが、なお健在でいてくれます、私がまだ乳離れしていないころ母に別れ、この祖母の手によって育てられたのでした。物心ついた私に、祖母が良く聞かせてくれた話ですが、乳をほしがる私を連れて昼は近所で貰い乳をし、夜はおも湯やスープを作って飲ませたそうです。また、お前はよくおばあちゃんの乳房をまさぐって、お乳、お乳と泣いておばあちゃんを困らせたものだった、と言う時の祖母の目は、いつも笑っていて優しかったのを憶えています。また祖母は70才近くなってからだと思いますが、編物を習って私にいろいろと編んでくれましたが、ずり落ちそうにかけた老眼鏡の顔と、編んでゆく祖母の指先を、今もはっきりと思いうかべることが出来ます。そのひと針ひと針にすこやかにすくすく育つようにとの切なる祈りがこめられていたことでしょう。しかしそうした祖母の願いも空しく、私はハンセン病にかかり療養所に来てしまい、本来なら祖母の世話をしなければならない私が、かえって今も祖母に世話をかけているのです。
 祖母の今日まで歩んで来た道は決して平坦ではなく、険しい山坂も多くあったことと思いますが、どんな厳しい現実にあっても希望を捨てず、一歩ずつ忍耐強く大地に足をつけて歩んで来た祖母でした。祖母の生涯をひと言でいい現すと、雑草のようにどんな風雨にも耐えて生きた人と言えるのではないでしょうか。雑草には、うるわしさも甘い香りもありませんが、力強い生命力があります。私はそれが大好きです。
 昨年のことでした。年寄りの編んだものだから、ていさいは良くないが、と言って手編のデンチコを送ってくれました。それを手にしたとき、柔らかな感触のなかに祖母の肌の匂いを感じ、思わず目頭が熱くなりました。かけがえのない存在として、祖母の愛情の深さをしみじみ味わったものでした。今の私に出来ることは、祖母の残された生涯が安らかで、1日でも長く生きていてくれるようにと、ただ祈り願うのみです。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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