わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第3章 絆

 27 夫の手術          篠 崎 あきみ

 私は昭和43年5月、第二センターが出来たのを機会に、職員看護を受ける様になりました。でも職員看護とはいいながらも、看護助手さんにばかり依存してもおられず、何も出来ない私の身のまわりのことは不自由な体をおして夫がしなければなりません。夫は少し無理をすると足首がはれ、ひざではうとすぐにすねに水がたまり熱が出るので、思い切って切断してぼしいとお願いしたところ、夫の体質はちょっとの手術にでも出血がとまらず、それを知っておられる先生はとうてい切断などは思いもよらぬ事だと言われました。そんなある日、愛生園の友人から 「私の娘も整形手術をうけて歩けるようになってよろこんでいるから、こちらへ来で手術をしてもらってはどうか」
 しかし、夫は当園の先生のてまえも考え愛生園に行くことをためらっていましたが、あるとき足のレントゲンをとるからとの呼び出しがあったので、なぜだろうかと思っていました。ところがその翌日愛生園の橋爪先生がおいでになり、夫の足を診察して下さることになったのです。私はたぶん、今日も手術は出来ないと言われるのではなかろうかと不安な気持で夫の帰りを待っていました。
 帰って来た夫の口から。
  「この足は手術を早くしないと手遅れになりますよ、愛生園で手術をしてあげますから思い切って来られてはどうですか」
 と先生は優しく言って下さったそうです。しかし夫は何ヶ月もかかる転園治療に、眼の見えない私を残して行くことを心配している様子でした。それで私のことはかまわず、この機会に手術をしてもらってはどうかと、夫をうながし仲野先生にお願いして手続をとることにしました。入院準備をしながらも私のことを案じてくれる夫に、お互に不自由をしのんで頑張ろうと励まし合いました。愛生園での夫の生活を私はいろいろと気づかっていましたが、あちらの病棟は、病衣やシーツも備えられ、洗面に行けない者には口をすすぐ容器がベッドにくばられ、入歯まで洗ってもらえるとのことで、食事にしても幾品も副食がつき、また希望すれば好みの捕食がしてもらえるし、それに入浴出来ない者には石けんをつけたスポンジで全身をふき、その後は何回もムシタオルを取替え清潔にしてもらえるから少しも心配しない様にと愛生面の友人が知らせて下さったので、安心しました。そして夫は念願がかなって、6月15日分館の方に付添われ松風で愛生園にむかって出発したのです。
 6月2日に最初の手術をうけたのですが、あれほど案じていた出血の方も思ったほどではなく、術後の経過もよくて9月29日に第2回目の手術をしていただいたのです。まだ右足の手術が必要なのですが、あまり長くなるので一応帰園することにしたのです。私は迎えの船便の心配をしておりましたところ、自治会会長の曽我野さんが愛生面に行く便があるので、そのときにつれて帰ってあげるからと言って下さったので、胸をなでおろしたのです。

 年もおしせまった12月9日、出発のときには車椅子で行った夫がステッキをついて歩ける程によくなって帰って来ました。この7ヵ月の間手術にたずさわって下さった橋爪先生をはじめ愛生面の看護婦さん方や、病友、それに夫の不在中、薬びたしの私をお世話下さった婦長さん、又寮の方々や友人の皆様よりあたたかい励ましを頂き、思いのほか元気ですごせたことは、大きな感謝でした。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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