わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第3章 絆

 28 みぞ          森 川 ゆきみ

 朝食をすますと夫は作業に出かけて行った。私は四畳半のまん中に置いてある長火鉢を拭き、棚のラジオのスイッチを入れて火鉢の前に坐った。ラジオからかわいい声のひな祭の歌が流れてきた。今日は三月三日桃の節句で、風もなく、やわらかな陽光が部屋いっぱいに差しこんでいる。パタパタとはたきをかける音や、雑布がけをしているのだろう、障子やガラス戸を開けたり閉めたりする音が、あちらこちらから聞こえてくる。さっき売店へ行っていた中西さんが帰ったらしく、
  「何かええ物があったかな」
 と、堀さんが炊事場で聞いている。
  「今日みたいな日にはよもぎ餅かぼた餅でも入れてくれたらええのに」
 あまりいい物はなかったのか、中西さんの返事はちょっと恨めしそうだった。向いの寮の炊事場では誰かよもぎをさらしているらしく
「まあ、はやそんな大きいよもぎが出ていたの」
「ええ、きのう畑の土手で摘んできたんよ」
 と話し合っている。このあたりの夫婦寮は寮と寮の間が特に狭いので、話し声が手にとるように聞こえてくる。西側の道路を自転車が忙しそうにベルを鳴らして走り、売店帰りの火たちのにぎやかな話し声も通り過ぎてゆく。
 火鉢の前に坐っていつになくざわめくあたりの様子を聞いていた私は、次第に落着けなくなった。失明して10年以上になる私は、映画や有名な芸能人が来たりして、寮の人たちが出かけ、一人ぼっちになっても、また親しい人から “折角こんなきれいな物を買ったのに、全然見えないなんでかわいそうに″と慰められたときでも、それほど大きな悲しみは感じなくなった。けれど今日のようなお節句や、盆、正月など、まわりの人々が楽しそうに浮きたっていると、今でも平静な気持ではいられない。
 私は結婚当時急性結膜炎のため、すでに失明寸前であった。それで夫は何もかも自分しなければならないものと覚悟していたらしく、
  「お前が何もできんでもなんとも思やせん」
 と言ってはくれているが、さぞ淋しくもの足りない気持であろう。せめて今日のようなときだけでもいい、部屋の中をきれいに片付け、床の間には花を活けて、好きな料理を作り、作業から帰ってきた夫に、お茶でも入れて上げられたらどんなに喜ぶだろう。手が不自由でも、足が悪くても自分の思うことができる人が羨しくてならなかった。
 やがて私はじっと坐っていることに我慢できなくなったが、私にできることといえば部屋の掃除ぐらいなものである。その掃除も今年になってまだ一度もしていない。正月三日頃から結節性紅斑が出て、高熱がつづき、その紅斑が化膿して傷になってしまった。熱のために治療棟へ行くことができないので、外科交換材料の許可を受けて、夫に手当をしてもらったが傷の数が多く、その苦労は並大抵のものではなかった。一週間ばかり前にようやく傷もよくなったので、風呂に入りやっと自分の体らしくなったところである。長らく寝ていたので、手の皮膚がすっかりやわらかくなっており、手をすり剥く心配もあるからどうしようかと迷ったが、やはり掃除をすることに決めた。
 まず二人の座布団を押し入れにしまった。以前とは大分様子が変っており、どこに河を置いてあるのかよく分らない。床の間のテレビとトランス以外のものは全部それぞれの位置へ戻した。そして廊下の柱に掛けてあるハタキと箒をとってきた。タンスの上には人形ケースが置いてあり、水屋には描と福助の置物、それに水仙の花が活けてある。私は花瓶を倒さないように細心の注意をしながら、埃を払よかった。やっと傷が治ったところなのに、夫にすまないことをした、今日こそ叱られても仕方がないと思いながら、
私は床柱を背にしょんぼりとしゃがみこんだ。
  「誰が掃除なんかせえと言うた」
 と、夫のすごい剣幕に、私は全神経を耳にしながら体は火がついたようにほてり、胸は痛いほど動悸を打っている。殴られると思った瞬間、夫は私の右手をひったくるように取った。それから左の手、足と調べ、
  「ここじゃ、ここ」
私はつりこまれて「どこ」と問い返した。
  「右足の小指じゃ、爪がとれかけよる」
 手を離しながら夫は言った。さっき掃除を済ませて便所へ行こうと押人れのちり紙を取りに行ったとき、敷居に足の指が引っかかったように思ったが、あのとき爪をはがしたのだろうか。そんなことを考えていると、
  「人の苦労も知らんと次から次へ傷をこしらえよって、もう交換はしてやらんぞ、どんなもんかちいっと苦しんでみたら分る」
 と、夫は腹立たしそうに言ってプイと立ち上った。夫の言い分も分らなくはないが、あまりの言葉にすまないと思っていた気持も消えてしまい、無性に腹が立ってきた。除をしたのに、私の気持など察してくれず、まるでわざと傷を作ったように叱られては我慢できない。こんなにまで言われながらいっしょにいるより、一人の方がどれほどましか分らない。憎らしい夫に何か言ってやりたいと思ったが、何から何まで世話をかけている身ではそれもできない。またそんな自分が情けなくて泣き出したい思いで坐っていた。
 私は腹を立てながらも夫の一挙一動に注意していた。立ち上った夫は今干したばかりの雑布をとってきて、畳についている血を拭き始めた。そして拭き終ると雑布を廊下ヘ
ポイと投げすて、押人れの交換箱から包帯をとり出すと。
  「もう昼前じゃ、治療室もしもうとるじゃろう、血が付かんように包帯だけでも巻いてやる」
 と私の前に坐った“誰が包帯なんか巻いてもらうものか”
と思い、強情に足を出さなかった。黙って待っていたが夫は包帯を押入れに戻すと火鉢の前へ坐った。
 いつもの夫だったら、こんなときには殴っておいて言いたいだけ言うとプイと出て行ってしまう。後に残されて腹を立てながらも、結局は私が辛抱しなければと思い直し、帰ってきたときにはこちらから話しかけてゆく。短気だけれど後はさっぱりしている夫は、一言二言バツの悪そうな返事をしているが、すぐ普段と変らなくなる。だが今日は夫が火鉢4前にいると思えば、おさまりかけていた怒りがまたこみあげてきた。
  「あんたも傷がいつもあるけど、それはわざとこしらえるの」
 と皮肉をこめて言った。お茶でも飲むらしく、水屋の戸を開けかけていた夫は、
  「ぼけ、治らんで困っとるのに、誰が面白おかしゅう傷を作る馬鹿がどこにありやあ」
  「それみない、目の見えるあんたでさえ困るのに、なんでうちが傷をこしらえたりするの、できたんだから仕方ないじやないの」
 言ってはならないと思いながら、心とは反対に口に出てしまった。大きな声だったので隣へ筒抜けに違いない。自分で言っておきながら急に恥かしく思った。今度こそ夫は怒るだろうと覚悟していたのに、おかしそうに笑い出した。
  「俺が一言いうたら三日も口返事して、急に強うなったもんじや、今までどんな無茶をいうても泣いて辛抱しよった。俺が製材で手を怪我をして社会へ帰れんことが分ったきに、何を言うても構わんときついことを言いよる。これからは反対に俺の方がへいへい言うとらないかんのぅ
 と、やれやれ大変なことになったとでも言いたそうに、急須にお湯を入れている。夫の冗談に私の心はぽぐれていった。
 これまではどんな無理を言われても不自由な私はただ我慢をしてきたので、夫がいくらよくしてくれても、いつも心に溝をもっていた。しかし口ごたえをしたことによって、二人の間に感じていたこだわりのようなものがとれ、これからはどんなことでもためらわず思ったまま言えそうな気がした。夫の入れてくれたお茶を飲みながら、今日からは本当の夫婦になれたのだと、あふれてくるものをかみしめていた。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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