わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 33 大島の地図          故 肱 川  清

 大島青松園は、高松より海上8キロ、定期船大島丸、松風が朝夕就航しております。この島はひさご形の周囲6キロ程の小島で、南には古戦場で名高い屋島の嶺が、西には伝説で知られる鬼が島が目の前に浮かび、湖畔のような海上に沈む夕陽の眺めは実に美しいものです。又北東には壷井栄の「二十四の瞳」や、オリーブで有名な小豆島が横たわり、小さい島が周囲に点在しております。
 最近、西海岸に新しいカギ形の桟橋が完成し、その長さは80メートル、巾1.5メートルで、定期船はもとより各商店の船も発着可能となりました。
 島で最も目立つものは、機開場の高い煙突と、鉄筋建ての白い大島会館、そして一番浜手につき出ているのが私達の憩いの家の盲人会館です。
 島内の南側は職員官舎地区、北側は患者地区となっており、建ち並ぶ寮舎は不自由寮、軽症寮、夫婦寮と区別されております、小高い丘の上には納骨堂、真言宗、仏立宗、天理教、金光教、真宗、キリスト教と各宗教の建物が並び、カトリック教会は職員と患者地域の境にあり、入園者はそれぞれの宗教に属し、朝夕礼拝につとめ、魂のよりどころとしております。
 さて、私達盲人会員は80名で、会活動としては機関誌「灯台」の発行、「全盲連」及び県視協支部としてのとりくみ、又読書、点字、川柳、ハーモニカ、民謡などのグループ活動を活発に行ない、友園とのテープ交換も盛んです。五月には盲人会創立30周年記念行事がとり行なわれ、大島会館に於いて准着生にも出演してもらい、オリーブバンドによる演奏会が盛大に催されました。
 それから裏山の中腹にある雲井寮は貞明皇后様の御下賜金によって建てられたもので、見晴らしの良い憩いの場です。つつじの咲きはしめた頃、会では准看生の誘導によって、この雲井寮周辺に山遊びをした事があります。私達も子供のようにはしゃぎ、歌などうたってすごした楽しいひとときはわすれることが出末ません。
 私達にとって今不安のたねは、急激にふえてきた自転車ですが、その数も239台にのぼっており、6台の自動車が食事運搬、残菜集め、糞尿処理などにせまい道を走り、歩行をおびやかされています。又、先般大阪ライオンズ・クラブより寄贈された車によって、社会復帰をめざし、10数名の者が運転の講習を受けております。
 そして趣味としてはスポーツ、文芸、カメラ、碁、将棋、活け花など、20数団体があり、将棋飛竜会は日本将棋連盟に加入し、時々本部現役棋士が来島され、指導をうけております。私も以前は将棋が大変好きで、飛車、角香、交互落や四枚落まで相手嫌わず天狗気取りで高言を吐いて、毎日指したものですが、運命のいたずらか4年前に失明し、残念ながら今では天狗の鼻もペシャンコというところです。
 次に10周年をむかえた菊友会ですが、会員の丹精をこめた大輪、懸崖、石付きなど5、6百鉢がならび、島の秋を彩る風景は見事なものです。又釣り好きな人達でつくっている漁友会は、それぞれの小舟で太公望気分を味わっています。
 園内には放送設備が整えられ、各寮のスピーカーを通じて、面会、電話、治療棟への呼び出し、その他お知らせ事項などに利用されています。なお放送室より11カ所に設置された盲導スピーカーから美しい「乙女の祈り」のメロディが流されており、この設備によって会員を治療棟、盲人会館、友人の寮へとつつがなく誘導してくれております。又現在では医学も発達し、プロミンその他の医薬品が出来、治癒して社会復帰をする者も年を追って増加しております。昔ながらの偏見や差別にとらわれる事なく、正しい理解をよせて頂きたいと思います。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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