わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 35 盲にともしびを          故 三 井 幸 弘

 晩秋のすがすがしい日が続きます。周囲の島々が、四国の山なみが、目の見えなくなった私のまな底にうかんできます。元気な人びとがスポ-ツに、読書に、たのしむ姿がうきぼりになってきます。東の浜から吹いてくる汐風にも秋の句いがして、盲の私をさびしくさせます。
 この静かな秋の日を、みんな一生懸命になってやっていると思うと、独りぽつねんと部屋の隅にすわっている白分が、なんだかもの悲しくなってきます。目の見えない人たちは今頃どうしているだろうか、さみしそうに部屋の隅で、私のように、うつろな1日を過ごしているのだろうか。それともラジオを聴いているのだろうか。なんのあてもなくいる空虚さ。あれをしてみたい、これもしてみたいと思うことがあっても、何もできないだろう。

 私はときどきラジオを聴いて、ふと、こんな空想をしてみることがあります。不自由な者の寮にラジオが1台ずつ備えつけられたら、好きな番組を聴くことができます。そして、正月には雪景色、春には桜咲く観光地、夏は山に海にとたのしみ、秋は紅葉の名所に遊ぶこともできるだろう。また好きな教養番組に親しみ、めいりがちな私の1日1日がゆたかなものになるだろう。しかし、空想はいつも直ぐ消えてしまう。あとから追いたてられる感じをもちながら、じーっとすわっていなければならない、秋の1日。
 私は、私に希望を与えてくれるものが欲しい。ともし灯が欲しい。身をひきしめるような秋風にさらされながら私は、1本の樹が冬に耐えているように、部屋の隅にすわっています。

       *    *    *

 部屋いっぱいにさしこむ冬の陽光をあびながら私は、サンルームにいるような気分で、Kさんの話しを聞いておりました。それは、目の良かった人が1夜のうちに視力を失なうことが多いというもので、なんだ、つまらない、と自分の目に自信をもっていました。しかし、Kさんの言葉は、嫌がらせやおどかしでなく、事実あったことを話しているらしく、人なつこい瞳をまたたかせていました。
幾年かののち私が探り杖を持つようになって、いまは故人になったKさんのささやきが聞こえるような気がします。

 失明した当時私の心に動揺はありましたが、手足が良かったことが助けとなり、日日を幾分楽にしてくれました。食卓のコップも手に吸いつくように取ることができ、落してこわすということはありませんでした。その頼みとしていた手の感覚が麻痺し、失明した時以上のショックをおぼえ、何をするにも不細工な有様です。お茶を飲むとき両手でコップをかかえるようにしても、つるりと逃げてしまいます。すべてが、そんな調子で失敗ばかり、泣くに泣けない気持で、我ながらうんざりしています。
 その上、道を歩いていたときのことでした。カーブや家の角にくると、顔にふれるわずかな風の動きで見当をつけていたのですが、その感覚も失なっていることに気付かされたのです。また売店からの帰り道、ゆき合う人がみんな急ぎ足に通りすぎるのを、変だなァー、と思いながら、家の前まで帰ってくると、雨だれの音がしているではありませんか。ハハー、雨が降っていたのだナ…とやっと分りました。雨だれでもポツンと頭に落ちないかぎり、しとしと降る雨など、どこ降る雨といいたいくらいです。
 この麻痺のことで、前に1度、病友と言い合ったことがありました。それは、夜寝ていて、傷のある足をネズミにかじられた、という話で、私はそんな。馬鹿なことがと、どうしても信じられなかったのです。ところが頭から雫のたれるほど雨にぬれてみて、病友の話したことがはじめて身にしみたのでした。これは底知れない恐ろしさで、健康な人には到底分ってもらえないことでしょう。
 わずかな時間で出来ていたことが、何時間もかかり、昔なら、かんしゃく玉が幾つあっても足りないくらいですが、気持を落着け、逆境に耐えながら、日常生活に工夫を重ねる私の毎日なのです。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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