わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 37 声の出なかった頃          滝 本 サトエ

 23年の夏の頃から喉がかわきやすく声もかすれだしたので、これは喉が悪くなる症状だと気がついた。私は毎日耳鼻科に薬をつけに通っていたが、やがて秋もすぎ、日1日と寒さが加わるにつれ症状は悪化していった。
 12月には、声が相手に通じなくなり幾度も繰り返してやっと分ってもらえるほどになってしまった。誰もが病気になってみて健康のありがたさが分るように、私も声が出なくなって初めて声の出るということがどんなに大切でありがたいものかをしみじみ味わった。昼間はうがいをしたり物をたべてまぎれているが、夜はぐっすりねむることが出来なかった。ある時は寝床に坐ったまま夜をすごすこともあった。たまたま砂糖が手に入ると砂糖湯を作り、かわいた喉をうるおすのであるが、甘いはずの砂糖湯が喉にしみて苦かった。
 その夜もトロトロとしたまどろみから覚めると、鼻がつまり息が苦しくなっていた。21畳の部屋には10人ほどの寮員が安らかな寝息をたてていた。私はそーっと障子をあけ、廊下に出て、食堂の入口から裏に出た。そして洗面器を取り、足探りで馴れた道を鶏舎の傍にある井戸に行って、水を汲み鼻をとおしたりうがいをしたりした。寝巻1枚の身に突きさすような師走の風が容赦なく吹きつける。私はこんな辛い苦しい想いをする位ならいっそ死んだ方がましだと一人つぶやいた。そのあとふと浮かんだのは、天理教の御教祖様が、人助けのためになされた50年の長い御苦労の数々だった。かみしめるように心の中で教えを繰り返していると、今までつぶやいたことが申し訳なくなり、お詫びをするとあつい涙がこみあげてきた。
  「それくらいで心を倒してはならぬ」
 と何処からか、声がしたようだった。人間1代の苦労なんて畳の目1つほどと聞かされていた。そうだ永遠の魂のために心を磨き、自然のなりゆきを素直に受けて、如何なる苦痛も克服して「出直し」の日まで待つとしようと改めて誓った。気持のせいか大分楽になり、私は寝間に戻り横になった。
 丁度この年11月から新薬プロミンの治療が始められ、結節がひき、喉が楽になったと、もっぱらの話題になっていた。そして第2班の募集があると大勢の人が希望したため、特に病状の進んでいる者が優先されることになり、私もその中に加えてもらうことができた。
 治療は24年1月18日の午后からおこなわれることになった。その頃私は北の端の寮にいたので、治療棟ま500メートル近くあったが、新薬に期待をかけていたので探り杖も軽かった。1週間ほどすると鼻のつまっていたのが、スーツとする感じで、あまりにも効果が早く嘘のようだった。それからは日1日と薄紙をはぐように病状が良くなってゆき、食事もよくすすみ、夜も安心してねむれ夢のような思いだった。
 治療を始めて4ヵ月近い5月2日の宵のことである。皆が賑やかに話をしているので、私も仲間に入り、何か言った時思いがけなく一声大きな声が出た。すると皆は吃驚して、
  「あっ、サトエさんの声が出た、声が出た」
 と話などそっちのけにして我がことのようによろこんでくれた。4、5日は声が出たり出なかったりしていたが、やがて普通に話が出来るようになった。半年も出なかった声が出るようになり、喉が楽になった。その嬉しさは筆や言葉では到底言い表わすことは出来ない。
 今では盲人会に行って、民謡や歌謡曲なども唄い、笑ったり話をしたりしている。私は何時も声の出なかった頃を想い出すたび、プロミンありがとう、先生、看護婦さんありがとう、声よありがとうと感謝している。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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