第2部 「灯台」の群像
第4章 生きる
38 私の小さな十字架 故 岸 野 ゆ き
私は大島青松圈の最初の患者として、数え年15歳で入園したものですが、自分1人こんな病気になったのかと、かなしく思っていました。そして18歳まではあまり病状に変化もなく過ぎましたが、そのあいだに多くの人が治療を受けながら病気が重り、妻や子供の名を呼びながら亡くなってゆきました。私は大正5年キリスト教の信仰に入り、それを機に親兄弟とも縁を絶ちました。それはこの病気が忌み嫌われ、家族まで社会から白眼視されることを知り、肉親から離れることがせめて親兄弟に報いることになると思ったからです。また一方ではキリストに従って自分の十字架を負うことがつとめと信じ、弱い小さな信仰をつづけておりましたが、誰それの姉が来たとか、弟が来たということを聞く度に、自分の兄や妹も来るのではないかと不安でした。そして私の病気が重くなって、片足を切断しなければならなくなったとき、兄が病気になって来たと思えばこれしきのことと堪え、手の指をわずらい失っても、妹がくるよりはと、心に言い聞かせて堪えしのびました。それからも悪いところが出来るたびに、私一人でみんなの病気を背負っていると思えば、まだまだ安いことだと自らを慰めてきました。
けれど3年前失明ということにたちいたり、これだけは誰のためとも思えず、まったく打ちひしがれて身も世もなく泣きつづけました。せめて手か足に知覚があればまだしもですが、お腹のあたりに僅か感じかあるだけですから、着物を着るにも、食事をするのも、何一つ目分でできず、読み書きの楽しみも奪われてしまいました。だるまさんのようになっても、眼さえあればと常に思っておりましたが、眼が見えなくなるとは考えもしませんでした。神のなされたことか、悪魔のしわざかと、心の目まで真暗になり、40年のあいだ親兄弟や故郷のことも忘れて神に頼り、すべてを委ね、ひとすじに信仰の道を歩もうと思っておりましたのに、眼が見えなくなると神を見失い、祈りも忘れて故郷へ便りをしようかといくたび思ったか知れません。長いあいだ送金もしてもらわず、不自由な生活に堪えてきたのですから、この際少しぐらいの無理は肉親も許してくれるだろうと、自分勝手な解釈をして迷っておりました。
ちょうどその頃、障害福祉年金が私たちにももらえるようになり、金銭的には恵まれてきました。また私より先に失明した人たらの朗らかな生活を見聞きするにつけて、私も盲人会に入り、慰め合ってゆきたいという心が与えられ、入会させてもらいました。盲人会に入ってもしばらくは信仰からも遠く、一人さびしい思いでおりました。そんなところへ愛生園の信仰の友か便りがまいりました。
「世のため人のために、先生や兄弟姉妹たちがどんなに働こうとしても、ぜんまいに油をさす人がいなくては、その機械は動きません。愛姉はぜんまいに油を注いでいて下さることを信じて感謝し、励まされております。お互いキリストにあるものは祈りよりほか私共のつとめはありません。愛姉はその点祈り人としてお励みのことと信じております。これからも共にぜんまいに油をさすものとして、祈りに精進してまいりましょう」
とあり、私のにぶい魂も、電気に触れたように目を覚まされました“ああすまない”神様許して下さい。これ程までに信じて下さる友をも忘れ、神より離れておりました。私は愚かさを悔い、また信仰にたちかえることができました。
いまでは心も落着き、眼の方も夜昼が分るようになり、人が自分の前に立てば輪郭ぐらいは分るようになりました。そして毎日治療に通っておりますが、その日も両手で杖を運んでいますと、
「やあ、はや行ってきたか」
と声をかけて下さいました。私が、
「はい、お早うございます」
と返事をすると、
「おばさんだったのか、野郎かと思った」
「やろうでなくて悪かったね、女郎ですよ」
と、道の真ん中で笑い合いました。それからは遠くから杖の音が聞こえると、こちらから挨拶するようにしています。眼が見えていたときには味わうことのできなかった心境です。以前には治療に行くにも、縫いかけのものを部屋の隅の方に押しやり、少しでも早く帰ってきて、その縫物を片付けたいと思い、また、たらいにつけてある洗濯物を涼しいうちにすまそうと、他を思いやることもしませんでした。しかし盲人になってみて、人の親切を受ける嬉しさ、道の途中で「連れて行ってあげましょう」と杖を引いて下さるときにはで涙の出る程ありかたく感じます。盲人同志であっても、前を行く者が杖の音を高くしてくれたりして話しながら歩くことの楽しさなど、数えればたくさんあります。
このように盲人になったことが、あながち不幸とばかり思えなくなりました。やはり神様は愛です。もう残る余生は長くないでしょう。今まで以上に神を信じ人を愛し、与えらりれた境遇を喜んで生きてゆきたいと思っております。
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