わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第5章 闇からの開放

 57 丸亀城に遊んで          高 岡 志津子

 5月12日、園のバスやしま号によるレクリェーションが行なわれることになり、盲人1人に1人の付添いということで募集がありました。私は夫の付添いで参加させてもらうことにしました。
 5月になって雨の日が多く、大阪で開催中の万国博覧会を見物した病友たちもほとんど雨であったということなので、盲人会のバスレクも雨になるのではないかと案じていました。幸い天候にもめぐまれ、数少ない外出の機会だけに参加する者、また出来なかった者も、いちように喜びました。
 出発は午前8時半なので、5時すぎに起きて仕度をはじめました。夫は私の着付けを手伝わなければならず、落着いて食事も出来なかったと思います。それに家族の一員ともなっているセキセイインコの「チー子」ちゃんが、何時もと違う様子に肩から肩を離れず、チイチイと啼くのもかわいそうでした。「チー子」ちゃんを隣の阿部さんに頼み、船まで見送るという小山さんに手引かれて桟橋に向いました。早過ぎたのかな、と思ったのは私の思いすごしで、すでに船に乗り込んでいる人もありましたが、船酔いをしやすい私は出来るだけあとから乗ることにして立っていると、次つぎ集まって来る人達の交す言葉の端々には盲人のハンディなど微塵も感じられない明るさそのものでした。そんなところへ「今日はどうぞよろしく」と来られた若い看護婦さんに、「こちらこそどうぞよろしく」と挨拶しておりました。傍の夫に尋ねると今日付添いをして下さる看護婦の上田さんと大森さんだということでした。皆の話す言葉から二人とも優しい看護婦さんであることを知り、もしお世話になることがあっても心強いと思いました。時間だとうながされて船に乗り、さあ、これからだと深呼吸をしました。「せいしよう」は静かに桟橋を離れ、気づかっていたとおりエンジンの響きがいやな振動となって足裏からはい上ってきました。しかし酔うこともなく船は高松に着き、ほっとするひまもなく、夫に引き立てられるように歩き、「やしま号」に乗りました。
 バスにも自信のない私は前の方の座席を与えてもらい、これから約1時間、丸亀城まで無事行けますようにと祈りました。「皆さん座席に着かれましたか。それでは発車しますよ」との上田さんの声を待っていたように、バスは動きだしました。フェリー通りを抜け国道11号線に入り、上田さんの名ガイドや夫の説明に、両側に建ち並ぶビルや看板の様子など聞きましたが、入園前に住んでいた街はただ町名にその昔をなつかしむだけでした。香東川、木津川を渡り、盆栽で有名な鬼無の町に入り、盆栽や植木類を窓ガラスに顔を押し当ててみている人もあるようでした。その時磯野さんの「弁当は積み込まれているだろうな」と言う、とうとつな言葉に誰も答えるものはありませんでした。「看護婦さん、弁当は積み込まれているだろうな」と、再び言う声に初めて弁当のありかを確かめる車内となりました。
 「弁当らしい物はありませんよ」と言われたので騒然となり、出張所に電話を入れてみようと言う者、高松へ引き返さなくては、と言う者、丸亀で買えるかしら、と言う者などさまざまな意見が出ましたが、バスは停車することなく走り続けるので、何も知らない私はどうなることかと思っていました。しばらくして進行方向とは反対側のレストラン“ニュー国分”の駐車場に入りました。そして「これより高松へ引き返しますが、バスに自信のない人は此処で待っていて下さい」と言う看護婦さんの説明に、車によわい私は夫をうながして降りることにしました。一緒にバスを降りた人は8組ほどであり、上田さんが付いて下さることになりました。そこは“ニュー国分”というレストランで、左は麦畠、右はレンゲ田と夫がおしえてくれました。手を引かれるままにウィンドウを覗いたり、レングの花を摘んでもらったりして陽だまりに腰をおろして、引き返して来るバスを待ちました。すぐ近くの国道を突走る車の騒音には唯々おどろきました。バリバリと地表をはぐかと思われる響きをたてるのはダンプカーだろうか。島にいては感じられない緊迫感を直接味わうことが出来ました。
 やがてバスが到着し、再び私達を乗せて今日の目的地である丸亀に向って走りだしました。途中車の渋滞で予定より1時間半も遅れましたが、無事丸亀に着き、天守閣を見上げる堀端に停車しました。バスを降りたところで弁当が配られ、帰りの時間や注意などあって自由行動になりました。私達は城内に通ずる平たい橋を渡り、大手一の門、次いで二の門を入り、小石の敷かれた広場をしばらく歩きました。私も夫も丸亀城は初めてなので、どう行けば良いのか迷っていましたが、丁度案内国があり、天守閣に上る道を確めて、右に折れて坂道を上ることにしました。この道も急勾配で50メートル余りあったでしょうか。中程に腰をおろして一休みしている町の老人がおりました。次いで右に折れて不規則な石段を登りつめると、道から入った処にテーブルやベンチ、屑篭もおかれた休息所がありました。そこからは讃岐富士の名で知られる飯ノ山が真向いに見え、阿讃の山脈が遠くかすむ眺望のひらけたところとのことでした。おおかたの人は一先ず此処で休憩するようでしたが、私達は朝さん夫妻と天守閣のある所まで一気に上りました。10段足らずの石段を幾つか上り、右に折れたり左に曲ったりしながら天守閣にきました。天守閣は想像していたよりも小さいらしく、遠くから眺める方が格好もよく、天守閣らしいと夫は言いました。高さ80メートルといわれる小山の上に、樹木の緑に映える天守閣は一幅の絵画ともいわれているそうです。丸亀城は蓬来城、亀山城ともいわれ、その周囲にはスポーツ施設が完備し、動物園もあり、亀山公園と呼ばれて観光コースにも加えられているとのことです。そのためか高校生や、小学生の団体が大ぜい来ておりました。この城は約370年前、生駒親正によって築城され、小山をそのまま利用した螺旋式四方張りの石塁は、熊本城、松坂城を凌ぐ全国一の高さを誇る平山城と説明されました。大阪城や、姫路城が、大きさにおいても、美しさにおいてもよく知られておりますが、丸亀城も天守閣が国宝、大手門が重要文化財に指定されているということですから、歴史的には価値あるものと思いました。私は天守閣の石垣や白壁をなでて、丸亀城へ来たことを実感しました。頂上の台地は、その一角に天守閣があるだけで、北から西へ、そして南へと半円をえがいて広く、噴水や花壇そしてペンチが置かれ、茶店もありました。眼下に丸亀の市街を、その向うには塩飽諸島の島々、更に岡山、中国山脈を眺めることが出来、眼を転じると象頭山、金比羅様を拝むことが出来るとか。高校生や小学生のはしゃぐなかを一巡し、再び天守閣の傍に戻って昼食にしました。草むらに坐って靴を脱ぎ、夫のついでくれる魔法瓶からのお茶を飲み、お弁当を食べると、朝からの緊張も疲れも拭われる思いがしました。青葉の香りのそよ風にほほをなでられながら、城にまつわる伝説や秘話を聞いていると、時のたつのも忘れました。途中から登ってきた人達と共に天守閣に別れを告げて、足どりも軽く石段を下りました。背丈以上もある赤いつつじの咲いている生垣の前で、鳥栖さんのカメラに収まり、右に折れて延寿閣の前を通り、天守閣の建つ台地を一周しました。石塁はコの字型に築かれているとか、深い木立は五月の太陽をさえぎり、冷たく濡れているということでした。木立のなかは下草がきれいに刈りとられ、幅1メートル余りの道が通じており、“いなむしろあり 飯の山あり むかしいま”という高浜虚子の句碑や、吉井勇の歌碑などもあり、文学の小道といった感じもしました。
 集合場所の大手門前に帰って未ましたが、まだ皆集まっておらず、私は一抱え以上もある柱や、大い門、扉に釣られた化粧鋲などにさわって、大手二の門の大きさと、370年前の歴史を偲びました。時間となったので大手門を出てバスのところに行ってみますと、私達がしんがりでした。午後2時30分、バスは帰途につき、今日の幸せをにぎやかに話し合っていた声も小さくなり、私も疲れた身体を座席にゆだね、浅い眠りに誘われていました。帰りは車の混雑もなく、40分足らずで園の出張所に着きました。盲人である私達が多くの人の善意に支えられて、丸亀城に遊ぶことが出来たのは大きな喜びでした。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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