わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第5章 闇からの開放

 62 絶望の中から          今 井 種 夫

  あかあかと庭のダリヤは燃えて咲く家出でし日のわが幻に

 夏の日もすでに暮れて、踏んでゆく砂にむっとするほてりを感じながら、家から附き添って来てくれた妹や弟とこの島に上陸したのでした。ここがわが終焉の地かと思えば心は重たく、暗い思いに閉ざされるのでした。
 昭和18年8月31日、幼い頃より自由気ままに振るまってきた私は、ハンセン病によって、夢にも考えたことのない他人ばかりの集団生活をしなければならなくなったのでした。島に来てからの毎日は全く味気ない明け暮れで、ある時には遥か海の向うに見える街の灯を眺めては深い悲しみに沈み、またある時には、一人故郷の山脈が見える丘に来て郷愁にひたるのでした。このような思いのなかで太平洋戦争の日々を過していたのでした。

  つきつめて思ひめぐらす身の行方淋しくなりて爪を噛みたり

 一度は是非故郷へ帰りたいと、帰省の許可も得たのでしたが、はげしい空襲下のこととて、その願いも果せないまま、病状も次第に悪化してゆき、手や足、頭までも包帯に包まれる身となったのでした。その頃から、時折目がかすむようになり、本に目を凝らしていると活字が重なり合い、更に続けて読んでいると、ぽっかり黒い玉が出来て紙面一杯に拡がるのでした。目に悪いとは知りながらも孤独に耐えられず、本に親しむことによって自ら慰めていたのでした。

  松の木に凭りかかり居て島の辺を過ぎゆく船の音を追ひをり

 そんな思いのある秋の朝、眠りから覚めると深い深い霧の中にいるようで、拭っても拭っても取れない白い幕に蔽われた世界、それは私にとって、忘れようとしても忘れることのできない、盲となった悲しみの日でした。人に告げるのもおそろしく、ただ茫然と臥床に坐り、このまま盲になってゆくのかと思えば、矢もたてもたまらず、必死に光を求めるのでした。

  角膜を剥ぐれば光り見ゆるかとわずかな望み尚も持ちつつ

 この島に私が来たとき、多くの盲人が杖にさぐり治療に通う姿や、靴を唇でたしかめてはくのを見ながら、自分だけはいつまでも目が見えるものと信じていたのでした。だが、思いもよらぬ失明という厳しい現実に出会い、暗澹とした思いに沈み、生きてゆく力すらも失って自らの死をさえ考えるのでした。

  沖遠く汐瀬の鳴るが聞こえつつ死を美しく思ひてゐたり

 戦争は苛烈を極め、わが家を継ぐ弟はフイリッピンで戦死。私の身にふりかかった失明。二重、三重の苦しみの中で、ついに胸をおかされたのでした。そして、31年1月8日、島は寒波におそわれて身を切るような西風の吹く朝でした。私は杖に探って治療棟へ行き、ダルメンドラと光田氏反応の注射を受けて帰ると、急に悪寒がしだし、その夜は40度近い熱に苦しみ、病棟に運ばれたのでした。入室してからも一向に熱はさがらず、はげしい痛みと熱で食欲もなく、さながら死を待つ者の如き日が続きました。
 このような私のベッドを、林みち子さんは毎日訪ねて来てはあれこれと気遣ってくれていました。いろいろと治療を受けつつも高熱が続き、次第に衰弱してゆくのでした。ある日医師に病状をたずねると、暫くためらっている様子だったが、相当胸の方がおかされており、長期の療養が必要だ、と言われたのでした。こうした病気に無知だった私は、ひどく狼狽して、もしもこの病気があの人に伝染するようなことがあってはならないと考え、林さんに話そうと思ったが、病気を嫌って私から去ってしまうのでは……と恐れ、悩んだのでした。でも隠しておくのは済まないと思い、心を決めて、訪ねてくれるのを待っていたのでした。
 夕食が終り、病室が静かになったとき、ドアのひらく音がして何時ものように明るい声で林さんが入って来ました。そして、初咲きのアイリスを枕辺の瓶に活けてくれながら、気分はどうか、と聞かれたので、私は思いきって医師の言葉をそのまま話したのでした。うつってはいけないので、もう来てくれなくてもいいから……と言いそえるうちにも涙があふれてきて、耐えきれず布団の中に顔を埋めたのでした。黙って聞いていた林さんは優しく、そんなことは心配しないで、たとえ2年かかろうと3年かかろうと、このベッドが自分の部屋だと思って気長に養生するように、と言い、気分の良いときには短歌でも作るようにしたら、身辺のわずらわしさからも遁れることができるだろう、考えておけば私が来たときノートしてあげる、と言ってくれたのでした。この言葉を身にしみて聞きながら、今まで思い悩んでいた心がひらけ、これからは好きな作歌も出来ると思えば、言い知れぬ喜びが湧いてくるのでした。そして翌日、早速ノートと鉛筆を買って来てくれました。常々歌を作りたい思いをおさえていただけに、たとえようもない嬉しさでした。いち時は短歌を志したこともありましたが、読むこともメモをとることも出来ず、他人に迷惑をかけることを思うとき、こうした望みもむなしく立ち消えになっていたのでした。絶望的になっている私を見て、作歌することによって少しでも心がやわらいでゆくのではないか、と思われたのでしょう。

  いつくしみの君が心に触れてよりしみじみ思ふ生くる倖せ

 それからは差しつかえのない限り訪ねてくれては、頭の中にまとめている幾首かの歌をノートしてくれました。私は歌を作るといっても、短歌がどんなものかも知らず、ただ好きというだけで、激しい痛みの中でまとめた歌はそれはまことにお恥かしいものでした。しかし、まとまっていようといまいと、ただ、その日その日を生きている喜びや悲しみを歌にする、つまり私の日記のようなものでした。
 しばらくは高熱や痛みが続き、ぺニシリン注射、皮下注射と毎日癖せた体に射っていました。このような状態ではありましたが、夕方の訪問時間になると私は林さんの来てくれるのを楽しみに待つようになりました。そうした心の張りが病苦を押しのけ、これまでと違った気持で、窓の小鳥の囀りや島近くゆく船音を、晴ればれと聞くのでした。

  一途なる思慕となりゆく夜の更けをポンポン船の音高くすぐ

 そうして、ようやく食欲の出かかった私に、林さんは庭の蕗でお寿司を作ってくれたり、とりたての苺に砂糖をかけて食べさせてくれるなど、親身も及ばぬ看護に、私は日増しに良くなっていったのでした。うっとうしかった梅雨もやっと上り、扇風機が音をたてる夏が訪れてきました。そして7月12日、強い陽ざしの道を林さんの肩にすがり退室したのでした。

  花咲けば花に寄りゐて素直なり病みの苛酷を越え来し今は

 寮に帰ってから、林さんの勧めもあって、「青松歌人会」に入り、「関西アララギ」にも所属して、作歌に励む毎日でした。杖にふれる風にも、足もとに寄せる波の音にも、今までとは異なった感情をもって受けとめるようになりました。悲しみのときにも、ただ悲しむだけでなく、それを作品にまとめ、作品を通して悲しみがやわらげられてゆくのでした。

  ありあまる時恵まれて歌を書く病まねば知らず過ぎむ心か

 私ひとりが満たされていることを済まなく思い、この喜びを林さんにも分かちたいと、作歌することを勧めたのでした。私の言葉に初めはためらっていましたが、ようやく心を決めて、共に作歌することになりました。
 もともと豊かな情感をもつ林さんは、投稿した作品が「関西アララギ」の巻頭に七首も載せられ、それを見て勧めた私にもとても喜んでくれたのでした。最初は日記のようなものでもよいと思っていましたが、作歌に励むようになると、ただそれではもの足りなく、少しでも良い作品を作りたいと、無我夢中で歌と取りくんでゆくのでした。しかし、短歌は私が考えていたような安易なものではなく、掘り下げれば掘りさげるほど、そのむずかしさと厳しさに突きあたるのでした。時には投げ出したい思いにかられることもありましたが、それでもなんとか作品を作り、林さんにノー卜し清記してもらって、その月の投稿をすると、やれやれと大きな仕事を済ませたような清々しさを覚えるのでした。私の一首の歌が、メモから清記するまでには3度4度と林さんの手をわずらわせるのですが、労を惜しまず自分のことのようにやってくれるのです。

  争ひのなき静かさに鵯の声交しつつ木の実喰みゐる

 明るい窓辺の机にもたれ、かつて自暴自棄におちいっていたころと、今の私を思い合わせるとき、もし林さんがいなかったら、また作歌の喜びを知らなかったら、今の私はあり得ただろうか。あのはげしい虚無感の中で生きてこられたとは、どうしても思えないのでした。
 短歌を始めて4年、1回の欠詠もせず、意欲に満ちた明け暮れを過ごしてきました。肉親と離れ、長い療養に疲れはて、かさかさに渇いた心に求めるものは、人間の真実でした。惜しみなく寄せてくれる林さんの暖い心にかばわれながら、しみじみと生きる喜びをかみしめているのです。

  心から心に伝ふ真実は盲ひし瞼を閉ぢで思ひぬ

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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